安藤忠雄展-挑戦-国立新美術館開館10周年 

たとえばよくあることだが、一人の建築家が請け負って作りあげた建物は、何人もの建築家が、もともと別の目的で建てられていた古い壁を生かしながら修復につとめた建物よりも、壮麗で整然としている。※

  andotadao.png人間の”思い”は経済を超える力となるー光の教会は、事務所スタートから20年余りを経て、自身を取り巻く状況が大きく変わりつつあった当時の私に、「何のために、誰のために作るのか」という、最も大切な問いを、改めて心に刻んでくれた。※
苦労話しであるとか。人がよくて、金儲けでなくてものを作ることが好きだとか。そんなことが理由で仕事が成り立っていく話である。これは、切実にその人の思いの話である。その思いも、その人だけの思いであるから、なかなか共有はできないかもしれない。しかし、できないから魅力的であるということもできるだろう。
予算は相変わらず厳しかったが、今回の工事を請け負ったのは、光の教会をつくった工務店ではなかった。実は、光の教会の工事途中に重い病気が見つかっていた工務店の社長は建物をつくりあげた後、一年後に亡くなっていた。※
そして、その後、志を継ぐ社員が再スタートを切った。
教会とは、施設ではなく、信者が集まって祈るための場所だ。たとえ屋根がなく、雨の日は傘をさしての礼拝となっても、心を通じ会うには何の妨げにもならないだろう。※人間の”思い”は経済を超える力となるー光の教会は、事務所スタートから20年余りを経て、自身を取り巻く状況が大きく変わりつつあった当時の私に、「何のために、誰のために作るのか」という、最も大切な問いを、改めて心に刻んでくれた。※

国立新美術館開館10周年 安藤忠雄展-挑戦-
会期
2017年9月27日(水)〜 12月18日(月)
開館時間
10:00~18:00 金曜日・土曜日は20:00まで
※9月30日(土)、10月1日(日)は22:00まで
会場
国立新美術館 [東京・六本木]
企画展示室1E + 野外展示場

<引用出典>
※方法序説 デカルト著 訳 谷川多佳子 発行 1997.7.16 岩波書店
※建築 安藤忠雄 発行 2008.10.25 新潮社








秋桜 中森明菜
https://youtu.be/eqHiscqPI5k







You Talkin’ To Me? / Taxi Driver / タクシードライバー (1976年の映画)

martin.jpg応募するわけは 不眠症なんだ ポルノでも見るんだな
時々見てる じゃあ何してる
ほとんど夜通し地下鉄かバスに乗ってるけどタクシーで稼ぎたいんだ
危なそうなところも走れるか どこでも平気さ
祭日でも働くか いつだっていいよ
免許証を見せてくれ 違反は
してない 身も心もきれいなもんさ
笑わすな くだらん冗談を言う奴は大嫌いだ
冷やかし半分で来たのならすぐ帰ってくれ
悪かったよ 健康は 普通 年は 26
学歴は たいしたことない
軍歴は 名誉除隊 陸軍か 海兵隊 俺も海兵隊だ
どうする バイトでやるのか ムーンライトで
俺の希望は常勤だ ムーンライトって
明日の夜勤までにこの書類を書いておけ

雨は人間のクズどもを歩道から洗い流してくれる
俺は常勤になった 勤務は夜6時から朝6時
たまに8時まで 週に6日 7日の時もある
忙しいとぶっ通しで走る 
稼ぎはメーターを切ればもっとなる
夜の街はクズどもであふれてる
吐気がする 奴らを根こそぎ洗い流す雨はいつ降るんだ
客に言われれば俺はどんなところへでも行く
気にならない どこだって同じだ

一緒に行かないか 映画に 仕事があるわ いや、そのうちだよ
今思い出したわ 歌よ クリス・クリストファーソンの
歌手? 作詞もする 歌にあるの ”予言者で麻薬の売人” 事実と作り話が半々の
歩く矛盾 俺のことか ほかにいて 俺は麻薬など売らない 私が言うのは矛盾よ 
あなたの

昭和の戦後すぐには映画の小屋がたくさんあつた。洋画もよくみた。イタリヤとドイツがやたらと多かったのを記憶する。個人的ではあるが、高校の女性教師がジョンウェイン主演の「駅馬車」をみたがおもしろくなかったと授業中に不満気にいっていたのを思い出した。確かに彼女がいうように名作名作といわれ過ぎの感はあったろう。情報が一方通行の時代であった。半世紀以上も前の話しである。先生はお元気だろうか。不思議に思うかも知れないが字幕の印象が頭から離れないでいる。翻訳者の名前も覚えていたくらいだ。※ 小学校の頃、銀行員の子が無料券があるから映画に行こうということになった。数人の仲間であった。現代の話しではない。現代は満たされ過ぎて興味は多様である。なぜかマリリン・モンローの「紳士は金髪がお好き」の看板が目に浮かぶ。銀行員の子は、こんな映画をみるのかと怒って走り去った。※ 現代に戻るが、アメリカの次期大統領にジョンウェインの映画を思い出した。不満の向きもあろうが荒っぽいのがかの国のイメージとなっているのかも知れない。モーリンオハラの尻を通りすがりに叩くジョンウェイン。お返しに彼女は思いきりにかれの頬をひっぱたく。が、かれは軽々と彼女を抱え上げ肩の上に乗せて歩き去るのである。つまり、マッチョは、おまえが好きだといいたいのである。モーリンオハラの役はアメリカ西部開拓時代を偲ばせる先進的な女性像ではなかったろうか。※

※『タクシードライバー』(Taxi Driver)は、1976年公開のアメリカ映画。制作会社はコロムビア映画。監督はマーティン・スコセッシ。脚本はポール・シュレイダー。主演はロバート・デ・ニーロ。第29回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作品。また、1994年にアメリカ議会図書館がアメリカ国立フィルム登録簿に新規登録した作品の1つ。大都会ニューヨークを舞台に夜の街をただ当てもなく走り続ける元海兵隊のタクシー運転手が、腐敗しきった現代社会に対する怒りや虚しさ、逃れられない孤独感から徐々に精神を病み、ついには自分の存在を世間に知らしめるため過激な行動に走る姿を描く。1960年代後半から1970年代中頃にかけて隆盛を極めたアメリカン・ニューシネマの最後期にして代表的な作品とされている。※ジョン・ウェイン(John Wayne,1907年5月26日 - 1979年6月11日)は、アメリカの俳優、映画プロデューサー、映画監督。西部劇のスターである。「デューク」(Duke)の愛称で呼ばれた。西部劇とは Westernの訳語であり、19世紀後半のアメリカ合衆国の西部開拓時代に当時フロンティアと呼ばれた未開拓地であった主にアメリカ西部を舞台にした小説や映画であり、主として映画を指す。※「駅馬車」:『駅馬車』(Stagecoach)は、1939年のアメリカ映画。ジョン・フォード監督。主演はジョン・ウェイン。共演はクレア・トレヴァー 、トーマス・ミッチェル 、ジョージ・バンクロフト。アーネスト・ヘイコックスの原作をダドリー・ニコルズが脚本を書いている。※マリリン・モンロー(Marilyn Monroe、1926年6月1日 - 1962年8月5日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の女優。本名、ノーマ・ジーン・モーテンソン(Norma Jeane Mortenson)。20世紀を代表するセックスシンボルとして広く認知されている。身長166.4cm、体重53.5kg。スリーサイズはB94 W61 H86。トレードマークは、真っ赤に塗られた唇、口元のホクロ、モンロー・ウォークと呼ばれた独特な歩き方。ノルウェー人の血を引いているといわれる。本当の髪の色はブロンドではなくブルネットであった。モンローというステージネームは彼女の母親の姓である。※「紳士は金髪がお好き」:『紳士は金髪がお好き』(Gentlemen Prefer Blondes)は、1953年にアメリカで公開されたミュージカル・コメディ映画。アニタ・ルースによる1925年出版の同名小説を原作とした1949年初演の同名ブロードウェイ・ミュージカルを映画化した作品である。マリリン・モンローは、ダイヤモンドや『お金持ち』に目がない金髪美人の役。※モーリン・オハラ(Maureen O'Hara、1920年8月17日 - 2015年10月24日)はアイルランドのダブリン出身の女優。ジョン・フォード監督作品やジョン・ウェインの西部劇に多く出演した。※ムーンライトというのはネイティブによればよく使う単語らしい。別口の仕事。昼間はホワイトカラー正社員。夜はレストランの皿洗いってことなのかな。※クリス・クリストファーソン(Kris Kristofferson, 1936年6月22日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州ブラウンズビル出身の全米を代表するロック、カントリー&ウエスタンの歌手。映画やTVなどでの俳優としての活躍も知られる。
<引用出典>Taxi Driver / タクシードライバーの台詞は字幕を読みながらほぼ意訳したものである。

写真はマーティン・スコセッシ / flavorwire.com/425538/40-things-you-didnt-know-about-martin-scorsese



「音楽する小澤征爾」大江健三郎 / あまり馴染めないが数冊買ってある。そのうち読まないかもしれないが読むかもしれない。読書が好きと言うわけでもない。つまり、ひらめきが必要な読み物である。特別な才能のひとの話しである。

nami.jpg大江健三郎の語りのような短文を読んでて少しウエットになった。否、目頭しらがウエットになったと言った方が正解である。大江健三郎の本は正直デビューの一冊を読んだだけである。あまり馴染めないが数冊買ってある。そのうち読まないかもしれないが読むかもしれない。読書が好きと言うわけでもない。つまり、ひらめきが必要な読み物である。特別な才能のひとの話しである。熱中すると、かれは何度も読み返す。秀れたひとに出会うと可能なかぎり影響を受けて、そのひとになりきるというのか。その吸収は凄まじいにちがいない。大江健三郎は力一杯多くの特別の才能のひとの風圧を受けて生きているにちがいない。
フランス文学者渡辺一夫の研究室に触れたところでは、あまりにも見事な秀才の同期の生徒たちにかれは気後れするのである。だから、研究室にいることは無理だからと小説に手を染めたと述壊する。先生は誰にとっても必要である。そんなふうに教えてくれる。友人も同じだ。かれと関係のあるひとすべては、この地球を、この世の中を感じるすべてであるということである。
武満徹は小澤征爾を紹介してくれた。わが子とともにかれに”音楽する”ことを学んだ。同じ芸術表現ではあるが、「文学する」とは言い難いようである。やはり、小澤征爾そのひとの表現であることは言うまでもない。
「音楽する」という言葉。これと同じ言い方をする方は、この国の音楽界でいられたかも知れません。しかしかれのこの言葉を初めて聴いた際の新鮮さ、鋭さ、力強さ、そこにみなぎっている喜びの感情は、やはり小澤さん独特のものとして、私らの同時代史にきざまれていると思います。※

小澤征爾:世界的指揮者。1935年9月1日、中国瀋陽市(旧満洲国奉天市)生まれ。41年に帰国し、49年より故齋藤秀雄に指揮を学ぶ。59年に単身渡仏。その後、トロント、サンフランシスコ両交響楽団の音楽監督を経て、70年にタングルウッド音楽祭、73年にボストン交響楽団の音楽監督に就任した。欧州ではウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などのオーケストラを定期的に指揮。02年から10年までウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。日本では1972年より新日本フィルハーモニー交響楽団と定期的に活動しており、84年からは指揮者の秋山和慶とサイトウ・キネン・オーケストラを組織している。2008年、フランスの最高勲章であるレジオン・ドルール勲章(等級はオフィシエ)、日本の文化勲章を受章。10年1月より病気療養のため音楽活動を休止し、一時復帰を経て、12年3月より再び活動を休止。13年3月、同年8月の「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」での本格復帰を前に指揮活動を再開した。

大江健三郎:昭和10年1月31日生まれ。小説家。東大在学中の昭和33年「飼育」で芥川賞。「個人的な体験」「万延元年のフットボール」「同時代ゲーム」などを相次いで発表,共同体と個人の関係,障害のある子との共生などのテーマをふかめ,平成6年ノーベル文学賞をうける。18年大江健三郎賞設立。「ヒロシマ・ノート」「核時代の想像力」など,評論もおおい。ほかに「宙返り」「取り替え子(チエンジリング)」など。愛媛県出身。

渡辺一夫:1901 - 1975 フランス文学者。日本学士院会員。ルネサンス期フランスのフランソワ・ラブレーやエラスムスなどの研究、及び『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の日本語訳で知られる。東京出身。暁星中学校でフランス語を始め、少年時代は巌谷小波や夏目漱石、芥川龍之介、十返舎一九、式亭三馬、『三国志』『西遊記』などを愛読し、詩や和歌も読む文学少年だった。第一高等学校文科丙類を経て、1925年東京帝国大学文学部仏文学科卒。辰野隆に師事し、鈴木信太郎、山田珠樹、豊島與志雄らの薫陶を受ける。

武満徹:1930~1996 作曲家。東京の生まれ。ほぼ独学で作曲を学び、独創的な音響世界を創りあげた。勅使河原宏監督の「砂の女」、小林正樹監督の「怪談」、黒沢明監督の「乱」などの映画音楽でも知られる。芸術院賞受賞。作品に「弦楽のためのレクイエム」「地平線のドーリア」「ノヴェンバー‐ステップス」など。

<引用出典>
※2016年、新潮社「波」9月号


YOKO SAKAI  Fukushima Ⅳ
傷跡。当たり前のように誰にでもある。恥ずかしいから表だっては誰も言わないだけである。
今回ちがうのは赤い破線の帯がいつもの升目のなかに加わったことである。

sakaiyoko.jpg自分の足跡を採取するひとである。若いころゴビ砂漠へ旅行をした。そして、その時の自分の足跡の印象が頭にこびりついて離れないでいる。だから、似たような場所を選び採取する。自宅に近い海岸が候補になる。勝手に想像するが心の”傷跡”がこのひとの画題だろうと思うのである。忘れられない傷跡。当たり前のように誰にでもある。恥ずかしいから表だっては誰も言わないだけである。今回ちがうのは赤い破線の帯がいつもの升目のなかに加わったことである。これは激震にちがいない。熊本の地震で彼女の地震計が大きく振れた。いつもとちがってしまった絵面である。本来ならば海岸の足跡が升目のデジタル表現で表されているだけなのであるが、これに赤い破線状の帯が加わった。掲載の写真からすれば大きな波やうねりを想像するが、これは偶然のアングルで撮影したもので、実はよくは覚えていないと説明してくれた。元々から東北の大地震がこのシリーズのきっかけとなっているから、波やうねりなどと、そんなふうに思ってしまう。作品が大きいから脚立を上ったり降りたりして制作状態を確認しなければならない。長さ10mあるから大変だった。だいたい春の今ごろ展示会をひらく。子共たちに自宅で絵を教えている。親子連れが足を運ぶのを目にするが、そのせいである。
さかいようこは油彩でデジタル思わせるドットを用い自らの”足跡”を表現している作家である。デジタルは数式を用いて頭の中だけで考えることであるが、アナログは指を使ってそろばんをはじいたり、歩いたり笑ったり泣いたりしながら、わけはわからぬが、そこで納得することである。

1957 福岡市博多区生まれ/福岡高校卒業/ゴビ砂漠に旅行。
1980 福岡女子大学卒業。在学中より九州造形短期大学教授にデッサンを師事する。第4回北九州ビエンナーレ入選、 第17回現代日本美術展入選。(東京)

さかいようこ展 Fukushima Ⅳ 2016 4.26〜5.8 に行なわれたものである。
ギャラリーとわーる 福岡市中央区天神2-8-34 住友生命ビル1F TEL092-714-3767

“Annna” “Jean - luc”  ジャンリュック・ゴダール E/M BOOKS 1998
質問 :「軽蔑」はあなたの作品中、最も古典的な作品ではありませんか。
ゴダール : アントニオーニの作品「赤い砂漠」の対極にある作品です。つまり、彼の作品は現代的な主題に基づく古典的な作品ですが、私は古典的な主題に基づく現代的な作品を作りました。結果的には、私の作品は古典的な雰囲気を持っていますが、彼の作品はとても現代的です。

godard.png撮影機が便利になり小型化され機能も充実したころに生まれた芸術家である。持ち運びが自由になって映画批評の代わりに使った。あまりにもヘタクソだから返って新鮮であった。かれにはもどかしさというのがないのである。例えば、ある青年が、ある女に恋をしたという話しを映画にするならば、その青年らしき男優にレンズに向かって「恋をした。」と言わせればいいのである。続けて山積みになっているかれのデスクにある古典文学から言葉という言葉が溢れ出るだろう。全ては、フランスのパリで生まれた自由主義者の子共のようななりふり構わぬ魅力的な全く個人的な随筆を映画で見せられることになるのである。うんざりして退屈する向きもあろうが我慢をすることである。そのうち慣れる。C’est la vie. それが人生である。とにかく映画の時間も現実の人生に流れる時間もいっしょだと考えてフランス映画はみた方がいい。女優ソフィー・マルソーが監督をした映画は現実の恋人との話しを題材としたものであった。あなたが好きよという打ち明け話のような映画であった。観客はどう反応したらよいのか。だれに聞けばよいのか。ラストに流れる諸先輩に捧ぐのなかにゴダールの名があった気がする。
ゴダールの「WEEK END」というかれの映画を覚えているだろうか。当時、笑ってしまった。しかし、これはフランス人の率直な感想ではなかったろうかと思った。ゴダールは、やはり希有な才能のひとである。普通のひとが普通に悩んでいる姿をまじめに描こうとしたのである。かれにエンターテイメントを望まないがいい。ゴダールという不具合を忘れないで映画を撮ってほしいと思うのである。レンズを通してひとの絶望を見ているのである。1998年の話しである。

※ジャン=リュック・ゴダール (Jean-Luc Godard, 1930年12月3日 - ) は、フランス・スイスの映画監督、編集技師、映画プロデューサー、映画批評家、撮影監督、俳優である。パリに生まれる。ソルボンヌ大学中退。ヌーヴェルヴァーグの旗手。
※ソフィー・マルソー(Sophie Marceau、1966年11月17日 - )はフランス・パリ出身の女優。13歳の時にオーディションで数百人の中から選ばれた『ラ・ブーム』の主役でデビューし、一躍トップ・アイドルとなった。実名とイニシャルを変えないように、マルセル・マルソーから姓を採った。ややアジア人に似た外見が特徴で、これは本人も認めるところである。現在もフランスでの人気は高いと伝えられる。

言葉にくらべたら、人間それほどのちがいがありません。言葉というのはとても緻密で驚くべき発明、存在です。

Jhumpa-Lahiri.png妻がやって来たら、しかるべきアパートを借りなければなるまい。(中略)
即入居可、という下宿を見つけたのは、そんなときである。静かな街にある家が週八ドルで一室を貸すらしい。私はガイドブックに住所を書き込んで、まだ不慣れなコインをそろえながら公衆電話のダイヤルをまわした。アメリカの硬貨はイギリスのより小さく軽く、インドのよりは重く光っていた。※
静かで冷静な語り口が非常に魅力的である。異邦人であるとは、常に何ごとに於いても慎重であらねばならない。つまり、先に見えるのは着実な人生の歩みをプランしなければならないということである。
先の引用は、デビュー短篇集「停電の夜に」の中の「三度目で最後の大陸」からである。訳者のあとがきにあるように、作者ラヒリはロンドン生まれで幼い時に両親と渡米。父は大学図書館に勤めているところなどは、この物語の設定に似ている。父は1964年にインドを離れ、イギリスで苦学した。ロンドン大の図書館でアルバイトをし生活費を稼いだ。
ラヒリはインタビュー記事の中で、こう語る。
いまやわたしも両親と同様に、子どもたちを外国で育てています。どうして両親の世代を描くことから自分の小説を始めたかというと、わたしにはかれらのことがよくわからなかったからです。両親のことを知りたいとずっと渇望していました。※
インタビュー記事のタイトルは”言葉は差異の最後の砦”である。つまり、人種ではなく言葉が際立つということである。
言葉がちがうとあなたもちがう。言葉にくらべたら、人間それほどのちがいがありません。言葉というのはとても緻密で驚くべき発明、存在です。※
父は仕事の口で北米に渡った。ケンブリッジでの彼の物語は娘ラヒリのつくった物語にはちがいはないが、異国の地で人種を超えて父を助けたのは言葉に他ならないのであり、”言葉は差異の最後の砦”にちがいないのである。

<引用出典>
※「停電の夜に」ジュンパ・ラヒリ著、小川高義訳、2000年発行、新潮社。
※1967年、ロンドン生まれ。両親ともカルカッタ(インドの西ベンガル州の州都)出身のベンガル人。幼少時に渡米し、ロードアイランド州で育つ。大学・大学院を経て、1999年「病気の通訳」でO・ヘンリー賞受賞。同作収録のデビュー短篇集『停電の夜に』でニューヨーカー新人賞、ピュリツァー賞ほか独占。2003年、第一長篇『その名にちなんで』発表。2008年刊行の『見知らぬ場所』でフランク・オコナー国際短篇賞を受賞。2013年、長篇小説『低地』発表。
※ベンガル人は、ベンガル地方(バングラデシュおよびインドの西ベンガル・ビハール州)を中心に住む民族。言語はベンガル語を話す。ベンガル人にはバングラデシュに住む者を中心にイスラム教徒が多い。イスラム教を除けば、大部分はヒンドゥー教徒である。その他、少数の仏教徒もいる。しかし宗教に関わらずベンガル語とベンガル文字が広く使われており、民族意識が強い。
※以下、夫と二人の息子とともに移住したローマでのイタリア語で書かれた初のエッセイ集『べつの言葉で』についての新潮社「波」誌上でのインタビュー記事から。著者の写真も。
(2015.9.26)


楽しいことであれ、悲しいことであれ、その記憶の中に少しでも胸に迫るものがあれば、君は独りではない。

ishikawaeriko.png楽しいことであれ、悲しいことであれ、その記憶の中に少しでも胸に迫るものがあれば、君は独りではない。幸せ者である。ぼくがついている。わたしがついている。さあ、しっかりしろ。もう大丈夫だよ。
石川えりこの絵本「ボタ山であそんだころ」は、何才くらいの子が読むんだろう。時おり見せる絵本の中の少女のするどい眼の表情が印象的だ。あきらめない意志。そういうことだろうか。絵本を手にするのはめったにない。だいたいが表紙は堅い頑丈な分厚い紙でできている。乱暴な子が投げる場合もあるのかな。いや、そんなことはないと思うが、そうかもしれない。
福岡県嘉麻市に生まれた作者は、幼かったその当時、産炭事業に従事するひとびとの間で育った。
となりの家のちえちゃんのおじさんは、よっぱらうと、いつも同じ話をする。
「えりちゃん、おぼえときよ、わすれたらいかんよ。山野炭坑でガス爆発事故が起こった昭和40年6月1日、237人の炭坑夫が亡くなったんよ。そのとき、237人の夫のいない人と、237人のお父さんのいない子どもができたんよ。えりちゃん、おぼえておきよ。大事なことばい」お酒がまわると、くりかえし、くりかえし、この話がはじまる。※
クラスでとなりだったけいこちゃんは、炭坑で事故があってから引っ越した。家族に不幸があった。ある日手紙が来た。
「定規をいつもありがとう。かえしわすれてごめんね。けいこ」元気だそうだ。封筒にはピンクの定規がはいってた。
ボクにも幼い時の妙な記憶がある。そして、未だに頭から離れない。終戦間もないころだから貧乏は普通だった。近所の子が、ぼくんちへ来ないかとさそった。大雨の止んだ初夏のころだった。日が熱くて蒸暑いのを覚えている。びしょぬれの雑草でいっぱいの上り坂の小道をついて行った。一瞬眼を疑った。そこにあったのは、屋根のない家だった。びしょぬれの床の上にはぼろ切れが散乱し真ん中に女の人が赤ん坊をおぶって座っていた。濡れた髪が額に張りついていた。彼は少し赤い顔をしてボクを振り向いた。あれから何年経ったか。

※石川えりこ『ボタ山であそんだころ』福音館書店 (2014/3/12)より引用。
ギャラリーおいしで作者に会った。絵本にサインをしてくれた。ちびまる子ちゃんより、ちょっと上なのかな。
※ギャラリーおいし / 石川えりこ 第46回講談社出版文化賞絵本賞受賞記念『ボタ山であそんだころ』 原画展 2015.6.23-7.4
/ギャラリーおいし:福岡市中央区天神2-9-212南通り  TEL092-721-6013

石川えりこ
1955年、福岡県嘉麻市に生まれる。画家であった祖父の膝の上で筆の動きを見て育った。
九州造形短大デザイン科卒業後、研究生として絵本制作を学ぶ。著書に『くろうさぎはねた』(海風社)、『くじらのおれいまいり』(教育画劇)、『ぼうしをかぶったオニの子-心が育つお話シリーズ』(主婦の友社)、『おばけのナンダッケ1.2.3』(国土社)などがある。 日本児童美術家連盟会員。横浜市在住。



sakaiyouko.pngさかいようこは油彩で例のデジタル思わせるドットを用い自らの”足跡”を表現している作家である。デジタルとアナログを対比させる表現で”本来の私”を探しているわけである。
喜びが大きければ大きいほどドットの数は減るのだろうか。悲しみの度合いが深ければ深いほどアナログなわたしは、ドットの森に行方知れずとなりたいのだろうか。表現は差しせまった時に生じるものである。豊かな時代である。問題はわたしである。わたしにつきまとうのは、執拗につきまとう当のわたしである。

1957 福岡市博多区生まれ/福岡高校卒業/ゴビ砂漠に旅行。
1980 福岡女子大学卒業。在学中より九州造形短期大学教授にデッサンを師事する。第4回北九州ビエンナーレ入選、 第17回現代日本美術展入選。(東京)

さかいようこ展 Fukushima2011 2015 4.28〜5.10 12:00〜19:00
ギャラリーとわーる 福岡市中央区天神2-8-34 住友生命ビル1F TEL092-714-3767


William-Plush.pngMetKids William Plush、メトロポリタン美術館の非公式だがマスコットである。家族が最近おみやげとして買ってきてくれた。大雪のニューヨークだったようだが、来場者は多かったそうだ。Williamのデザインは古代エジプトの出土品をヒントに考案された。古代のお守りです。かわいいぬいぐるみだ。つまらないおとなのせいで、かわいそうなめに子どもたちが会わないようにWilliamにお願いしたいものだ。
メトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art、通称:The Met)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンにある世界最大級の美術館。5番街に面するセントラル・パークの東端に位置する。メトロポリタン美術館の設立構想は、1866年、パリで7月4日のアメリカ独立記念日を祝うために集まったアメリカ人たちの会合の席で提案された。この会合の参加者のひとりだったジョン・ジョンストンは、アメリカに国際的規模の美術館が存在しないことを憂い、メトロポリタン美術館の設立構想を訴えたが、この時点では美術館の建物はおろか、1点の絵画さえ所有していなかった。美術館は4年後の1872年に開館。その後は基金による購入や、さまざまなコレクターからの寄贈によって収蔵品数は激増し、関係者達の努力の結果、現在では絵画・彫刻・写真・工芸品ほか家具・楽器・装飾品など300万点の美術品を所蔵。全館を一日で巡るのは難しいほどの規模を誇る、世界最大級の美術館のひとつとなっている。http://www.metmuseum.org


tuge2.png漫画の本は小学校の高学年あたりで読まなくなったと思う。覚えがないからそのようだ。小松崎茂の絵に夢中になったことや少年サンデーの初刊を手にして喜んだときのことを思い出す。※つげ義春の本は知らない。原書を手にして思ったのは、そんなに”暗い話し”でもないということである。ユーモアもある。「無能の人」がタイトルだから情けない話しばかりかと思ってしまったが、身に染みついている昭和の風景が主役であるように読める。現実味のないことばかりを実行しようとして家族に迷惑をかける男の話しである。つまり、だめな青春期を引きずっている生活力のない哀れな男の話しである。などと言えば身もふたもないが、浮世離れを感じさせるから面白いと言えば、面白い。※
さて、岩波の「図書」で紹介されていた仏訳版「「無能の人」の話しである。左の絵がその表紙になっているコマである。古本の旗がある下のコマである。原書の日本のものでは、なにをやってもうまくいかない漫画家助川助三が多摩川で小便している姿が表紙になっているが、仏語版では、”「いながらにして、いない」、無のごとき生を実践する山井の古本屋の前にたたずむ場面”が選び出されたようであるから、さすがにフランス向きであるというような解説であった。その解説の中では、日本語の原書のように、日本人と同じようにコマの読み方も指南していると書いている。こんな感じだ。「注意!本書は日本語の原書と同じ方向で読むようになっています。『無能の人』の最初の頁は本書の反対側となり、コマの読み方も反対です。右から左へ、上から下にと読んで行きます」。「マンガ」は立派なフランス語になっている。専門性が高く、最近ではパリのメトロでもマンガを読む風景がみられるということだ。※

※『週刊少年サンデー』(WEEKLY SHONEN SUNDAY)は、小学館が発行する日本の週刊少年漫画雑誌。1959年に創刊。略称は 「サンデー」など。※小松崎 茂(1915年- 2001年)は東京出身の画家・イラストレーターである。空想科学イラスト・戦記物・プラモデルの箱絵(ボックスアート)などで幅広く活躍した。※つげ 義春(1937年- )は、漫画家・随筆家。本名:柘植 義春(読み同じ)。『ガロ』を舞台に活躍した寡作な作家として知られる。テーマを日常や夢に置き、旅をテーマにした作品もある。『ガロ』を通じて全共闘世代の大学生を始めとする若い読者を獲得した。1970年代前半には「ねじ式」「ゲンセンカン主人」などのシュールな作風の作品が高い評価を得て、熱狂的なファンがある。
※つげ義春「無能の人」:『無能の人』は、『COMICばく』(日本文芸社)の1985年6月号より「石を売る」「無能の人」「鳥師」「探石行」「カメラを売る」「蒸発」と続くシリーズ連作。読切短編の多いつげ作品としては異例の連続シリーズとして知られるが、この作品を機につげは長い休筆期間に入る。主人公の助川はつげ自身がモデルという指摘もある。仏訳版の表紙になったコマは、「カメラを売る」の章の中の156頁。
※つげ義春「無能の人」仏訳版についての引用は、2014年11月号、岩波書店「図書」より。/ 解説:宮下 志朗 ・フランス文学者、東京大学名誉教授、放送大学教授。


iwanami.png写真右は1480年のフランスの羊飼いの手帳である。解説によるとノエ・ド・バラス「移動牧畜の日録」の26-27ページとある。フランス語のalpageの意味は「高地での放牧」であり、アルプスに由来するということである。羊の飼育は、冬は平地で、夏は山地で放牧をおこなう「移動牧畜」であるという。※この手帳は全38ページで日々の記録が南仏語で書きとめられている。この年には34000頭余りの羊を山に運んでいるということなどが日録としてあるそうである。岩波のPR誌はくまなく読むわけではないが、もうやめてしまった毎朝届けてくれていた新聞の文化欄みたいで重宝している。話しはズレたが、日録の主であるノエ・ド・バラスという男が羊の群れの中で節榑だった手にペンをもって書きとめる姿を想像するだけでも何故かありがたく思うのだ。写真にある日録の内容だが、”羊の大群が農村を通過すると、どうしても農作物に損害が出て、これを補償する必要が生じる。”ということが書いてあるらしい。後は村の番人との通行料の交渉事が残っている。冬は平地だそうだが、羊たちは元気そうだろうか。

※岩波書店、図書2014.8月号表紙/ノエ・ド・バラス「移動牧畜の日録」、ルヴェスト=デュ=ビオン村、バリュオール家所蔵 / 解説:宮下 志朗 ・フランス文学者、東京大学名誉教授、放送大学教授。


odamitsuru.png女の裸の写真とはどういうものか、わかりやすく教えてくれる写真である。ODA Mitsuru PHOTO Exhibition Rukousou 2014.
Rukousouは「る紅草」ということらしいから、植物に女の裸を例えたのだろう。※ 水面に浮かぶ張りのある乳房と水面下の下腹。男にとって”食い時”の女の体である。露地物の野菜を、行商のおばちゃんが無造作に新聞紙に包んでくれる少し土のついた肌触りの素の女の裸を撮りたいのであろう。大根、人参、玉ねぎ、かぼちゃになすびに瓜。男は元元から人間ではなく獣だから、女にとっては迷惑千万な勝手な想像をするものである。小田満は見たところ年格好から先の戦間期を生きぬいてきたと思われるから、”その少年”はあくまでも飢えを満たす”食い気”のある女の裸の力強さを撮ろうとするだろう。湧き上がる性欲は、今や抽象のかなたであるだろうか。ひとの”想像力”とは、自意識過剰のそのときの記憶とない交ぜになった目の前にある現象をまねるものである。小田満より少し時代は下がり欧米文化に慣らされた柔な男の子は、ハーパー・リーが原作の映画”アラバマ物語”に出てくるつなぎを着た、幼いトルーマン・カポーティーもいっしょに悪ふざけをする鼻のまわりのソバカスが可愛い少女がそのまま大きくなったようなジャクリーン・ビセットの優雅なビキニスタイルに恋いこがれたものだ。無理に、彼女の乳首や下の毛はあまり見たいとは思わない。時代とはそういうものである。※

オダミツル写真展「る紅草」/期日:2014.12.22 ~12.28 / アートスペース貘 / 福岡県福岡市中央区天神3-4-14 TEL 092-781-7597 http://artspacebaku.net(作品画像は同サイトより。)
※1960年に発表されたハーパー・リーの同名の小説が原作である。彼女の自伝的小説『アラバマ物語』(原題:To Kill a Mockingbird)は1961年度のピューリッツァー賞を受賞、翌1962年には全米で900万部を売り上げるという大ベストセラーになっていた。知人から『アラバマ物語』を薦められた映画プロデューサーのアラン・J・パクラもその内容に深く感銘を受け、嘗て一緒に仕事をしたことのある監督のロバート・マリガンに映画化の話を持ちかけた。プロデューサーのアラン・J・パクラたちは映画の新鮮味を保つために、主演のグレゴリー・ペックを除き出来るだけ観客に馴染みの薄い俳優を起用することにした。特に子役は慎重にオーディションが行われた。映画のヒロインであるスカウトを演じたメアリー・バダムは殆ど演技の経験は無かったが、この作品で見せた演技で助演女優賞にノミネートされた。授賞式の時点でバダムは10歳であり、最年少のノミネートだった。
※ジャクリーン・ビセット(Jacqueline Bisset、本名: Winfred Jacqueline Fraser-Bisset、1944年9月13日 - )は、イギリスの女優。イングランド人とフランス人の血を引く。流暢なフランス語を話すため、フランス映画への出演も多い。気品のある役柄が多い。


ansei.png山深い場所をたずねるのは久しぶりである。離合ができない道を想像すればよいだろう。途中、案の定道に迷った。薪を積んだ小屋があり釜に火が見えた。青年がいたのでたずねた。少し方角がわかった。通り過ぎていたのね。連れは言う。青年は元気な声で教えてくれた。炭焼きだそうだ。街の人は大げさだなと思ったことだろう。再び迷った。仕方がないから、車から降りて人気を探した。人家はあるがひっそりとしてたずねようがない。運良く軽トラの女性が通りかかった。まっすぐ後一キロだそうだ。ギャラリー安政に着いた。佇まいからして、そのままこの日本家屋に無遠慮に入っていいものか戸惑った。主に許可を得てから入るのが筋だなと妙に遠慮がちになるから不思議であった。お茶をいただこうとレストラン仕様の部屋に通された。外の日照りの暑さと比べて畳の部屋はひどくひんやりとした。カーディガンを羽織ると、寒いくらいあるでしょうとオーナーである東野さんがおっしゃった。オーナー手作りのケーキとコーヒーをいただいた。ここは東野さんの実家である。たぶんにお父様のことだろう。壁にかけられた額縁に剣道七段とあった。昔の男はみんな剣道七段だったのだろう。

ギャラリーは冬の間はお休みである。春が来れば開く。
※左奥がカフェ、右がギャラリー。

ギャラリー安政は漆喰の厚い壁に守られた蔵(明治6年築)はアートスペースとして様々な作家の個展を春から秋の期間、開催している。
詳しくは下記の「ギャラリー安政」のホームページで確認されたい。十一月からは、テキスタイル作家十一名による「NEXUS-weave-」と題して展示会が予定されている。
http://gallery-ansei.com 〒839-1431 福岡県うきは市浮羽町新川2804[野上邸]
※土、日、月、祝日のみの営業。問い合わせ 0943-77-2401

yoshitomonara.pngこの子、なんか痛々しいよな。声かけるとヤバイ気もするし。ここんところ、やな世の中だね。幼い子を見るときの自分がみえてこないか。こどもが好きかね。と言われれば、ややこしい答えが頭の中をぐるぐるとまわるね。身近にいないからわからんが、どうなんだろうね。何だかどうもぐあいが悪くなる気配がするね。
「私は子供が嫌いだ」。これは自分では言いたいが、人から言われるのは不快、という類の主張である。こういうときには子供は嫌いって言う方が正直だってことになるのよね、でももう先に言われちゃったから「子供らしい子供は可愛いわよ」って言っておくけど。※ 著書の中でこの大学教官は女ことばを多発するが、妙に似合っている気がする。否、へたにくだけるよりも専門性のある事柄を述べるときの一方法としては妙手だと考えたのだろう。悪くないね。そう思うよ。
毀れてるんです。何が。社会がです。社会って何よ。おとなが毀れているのに幼い子にはどうしようもないってことさ。情緒の欠落は言うまでもない。豊かになったつもりなのに。繊細な子に、がさつは辛いよね。命の尊さなどと言っても通じるもんかね。狂っているというよりもともと何もないんです。何もないところで息はできない。品も小想もないがさつが大手を振って歩いているだけだと思うのだけど、どうかしら。口調真似はうまく行った。
大学教官の話しは奈良美智の作品に及ぶ。※「ここで、奈良美智の作品をご覧いただきたい。可愛いでしょう?」可愛いは不気味の同義語。このひとは、そうだよというくらいの意味合いを言っているのだと思う。この世の中、ささやかな勝手くらいしないと面白くないさ。正直、子供は不思議な存在として映ってしまう。明らかに、オジサンのぼくとは違う。「奈良は、具体的には奇形化(特大の頭、醜い顔)、サイズの拡大(巨大化させられた愛玩物)、... 」と不気味を滲ませて、意識させると語るが、オレはけっこう可愛いと思うよ。アイスぐらい買ってあげたいさ。だから、どうしたの、というくらいの意味だがね。

kurtvonnegyt.png事実を知らなければ、何ごとも語れないのか。そうでもない気はするが、語るひとの資質によると言えば、あまりにも乱暴か。世界中に広がっている鬱状態によくきく特効薬は、ブルースという名前の贈り物だ。ポップ、ジャズ、スイング、ビートルズ、ロックンロール、ヒップホップなどなどーすべてはこのブルースがルーツといっていい。アメリカの奴隷時代ー苦しさのあまりの自殺という疫病神を追い払ったのは、ブルースであったと、その著書でヴォネガットは言う。外国人がわれわれを愛してくれているのはジャズのおかげだ。ーわれわれが憎まれているのは、われわれの傲慢さゆえなのだ。憎まれているのは、いわゆる自由と正義を押しつけようとしているからではない。とも、つけ加えている。※
思い出したようにジャズやポップスを聞いている。うらみはないつもりだよ。

ジャズついでであるが、聞きかじりによると、ジャズは、狭いライブハウスなんかのサロン的な性格があるそうである。ビル・エヴァンスは、中でもサロン性を保ち続けたジャズピアニストであったということだ。あまりにもかわいそうな生涯であったようである。「ワルツ・フォ・デビー」はよく聞く。ライブレコーディングで客のおしゃべりや咳払いなども録音されているが、つまり、そういうことである。※

shiba.pngわかりやすくしなければ、何ごとも埒はあかない。日本人はいつも思想は外からくるものだとおもっているというものの言い方に共感をもつときに思うのは、そのような思いは誰もがわかっていることであり口にはしないということをわからねばならない。思想は、書物のかたちをとって入り込んできたのであり、けっして口承の俗にまみれた歌のようには伝承しない。あくまでも、書棚に収まっていなければならない。
要するに、歴世、輸入の第一品目は書物でありつづけた。思想とは本来、血肉になって社会化さるべきものである。しかし、それを好まない。しかし、知ることに於いては、あらゆる困難をも厭わない覚悟をもっている不思議な民族である。※

年明けの都心の郵便局にいた。混雑していた中に長椅子に座っていた。このような場所では、番号札を持って待つのが一般的な風景である。その時虚ろであったかどうかは思い出せないでいるが、申し合わせたかのように隣から大きな声ではっきりと聞こえて来た。おじさん聞いてくれるか。このところ、死んだらどうなるのか気になってしょうがない。黒い影が横にあった。汗臭い匂いを覚えている。更に言う。生きている間だけが全てかね。俺はそうは思わんのだが。おじさん、どう思うかね。明らかに問われているのはわかっていたが、振り向くのはやめた。面倒である。窓口から呼ばれた。用事を済ませた。

趣を味わうとは、どういうことなのか。何故そのようになったのかは、説明をしない。説明をしていたら趣味にならない。説明が必要なのは、ポケットの中の小銭を勘定して一編の詩を書く仕事と同じであることに間違いはないのではないのか。説明が嫌いな性格では気が動転して来る。趣味は唯一ひとの証しであり、また、やっかいな代物だと誰かに言わせる誇れる現象である。わたしだけが分かる領域である。でなければ、戦うより他にない。

レオナルド・ダ・ヴィンチの例の微笑みの絵は、彼が、その微笑みに困っていたから描いたのではないのかと思うのである。何故なら、こういうことを言っているからである。過ぎ去ったことに嘘をつくな。曖昧さがあっては鳥のように飛べない。
彼は描くことによって解明しようとしたが、かえってその魅力に捕まったのだろう。彼は怯えていたにちがいない。※

escher.pngかれの上目遣いには別の意味がある。うかがう。現実にすがるのではなく、その裏を見抜きたいのである。高名な版画家、マウリッツ・コルネリス・エッシャーである。マジシャンのような、手品師のような芸術家として奇異をありがたがる俗な“充填”な人々にまで広がった。思い出す。昭和三十年代、小学生の頃までは終戦の匂いが残っていて、空き地などで子ども相手に小銭稼ぎに詐欺まがいの今で言うアルバイトを大人がやっていた。時々面白いと思うものがあった。ブリキの煙管と缶詰の空き缶でつくったようなロボットでアルバイトをする大人もいた。しばらくしたら“動く”と言う。じっと待つ子どもたち。しかし、決して動かない。その間に飴玉などを売りつける。思い出すが、その男に尋常でないものを幼いながら感じていた。結局動かないが、子どもたちはかれに同情をしていたように思う。高名な版画家・マウリッツ・コルネリス・エッシャーとは似ても似つかぬ話しで申し訳ないが、かれの絵を見て、かれの写真を見て思い出したから手の施しようがない。”観衆”の好奇心に於いてはいっしょだろう。この頃の子どもたちは、ひとの皮膚を通して謎解きをやっていたにちがいない。引用した書籍の巻頭に、こんな言葉がある。
「不合理なものを探す人は、不可能なものに到達します。それは私の地下室にあると思います… 上に上がって確認してきます」
この言葉は今の子には通じないかも知れない。なぜなら、かれらには常に答えが用意されているから。しかし、予断を許さないから、このような状況下にあるのかも知れない。到達した後の“不可解さ”に我々はいる。※



shimizuminoru.png※「永遠に女性的なる現代美術」清水穣 著 2002年淡交社刊 ※清水 穣(しみず みのる、1963年10月18日 - )は、写真研究者、同志社大学教授。 東京生まれ。1986年東京大学独文科卒、1988‐1991年マールブルク大学に留学。1992年同大学院博士課程中退、同志社大学専任講師(ドイツ語)。1995年、『不可視性としての写真 ジェームズ・ウェリング』で第1回重森弘淹写真評論賞受賞、同志社大学言語文化研究教育センター教授。2013年同グローバル地域文化学部教授。キヤノン写真新世紀などの審査員を務める。写真批評のほか、カールハインツ・シュトックハウゼンなど現代音楽も論じる。
※NARA 48 GIRALS(なら48 がーるず)2011.12. 筑摩書房刊。
yoshitomonara3.png※奈良 美智(なら よしとも、1959年12月5日 - )は、青森県弘前市出身の画家・彫刻家。世界的に評価されているポップアート作家で、ニューヨーク近代美術館(MoMA)やロサンゼルス現代美術館に作品が所蔵されるなど日本の現代美術の第二世代を代表するひとり。にらみつけるような目の女の子をモチーフにしたドローイングやアクリル絵具による絵画で知られる。
※2007年4月に永眠したカート・ヴォネガットが2005年に本国アメリカで刊行し、NY Times紙のベストセラーになるなど、往年の読者を超え広く話題となったエッセイ集。日本放送出版協会、2007年刊。※カート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut、1922年11月11日 - 2007年4月11日)はアメリカの小説家、エッセイスト、劇作家。1976年の作品『スラップスティック』より以前の作品はカート・ヴォネガット・ジュニア(Kurt Vonnegut Jr.)の名で出版されていた。人類に対する絶望と皮肉と愛情を、シニカルかつユーモラスな筆致で描き人気を博した。現代アメリカ文学を代表する作家の一人とみなされている。代表作には『タイタンの妖女』、『猫のゆりかご』(1963)、『スローターハウス5』(1969)、『チャンピオンたちの朝食』(1973) などがある。ヒューマニストとして知られており、American Humanist Association の名誉会長も務めたことがある。20世紀アメリカ人作家の中で最も広く影響を与えた人物とされている。
※「TALKIN’ジャズ×文学」小川隆夫(1950年東京都生まれ。整形外科医、ジャズ・ジャーナリスト。東京医科大学卒業)、平野啓一郎(1975年愛知県生まれ。作家。京都大学法学部卒業。『日蝕』で第120回芥川賞受賞)による対談。2005年、平凡社刊。※「ジャズ好きな二人が、マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンスを中心に、ショパン、プログレッシヴ・ロック等を縦横に語り、音楽と文学の枠を超えて創造の深奥へと至る。
talkinjazz.png※ビル・エヴァンス:ウィリアム・ジョン・エヴァンス(William John Evans、1929年8月16日 - 1980年9月15日)は、アメリカのジャズ・ミュージシャン。モダン・ジャズを代表するピアニストとして知られ、ドビュッシー、ラヴェルなどのクラシックに影響を受けた印象主義的な和音、スタンダード楽曲を題材とした創意に富んだアレンジと優美なピアノ・タッチ、いち早く取り入れたインター・プレイといった演奏は、ハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレットなど多くのピアニストたちに多大な影響を与えたほか、ジョン・マクラフリンといった他楽器のプレイヤーにも影響を与えている。エヴァンスの作品はジャズ・ミュージシャンの中で知名度が高く、中でもベースのスコット・ラファロと録音した諸作品(特にアルバム『ワルツ・フォー・デビー』)は、ジャズを代表する傑作としてジャンルを超えた幅広い人気を得ている。
※タイトル曲「ワルツ・フォー・デビイ」は、元々エヴァンスが1956年に作り、初リーダーアルバム「ニュー・ジャズ・コンセプション」にソロ収録された曲で、当時まだ2歳で幼かったビルの姪デビイに捧げられたものであるが、広く知られたのはこのライブアルバムでの演奏による。エヴァンスのオリジナルとして特に広く知られ、愛らしい曲調のジャズ・スタンダードとして親しまれている。このライブ盤では快活なリズムで演奏され、前奏はワルツタイムであるものの、インテンポに入ると4拍子で演奏されているのが特徴である。
※「この国のかたち」司馬遼太郎著、1990年、文芸春秋社刊。司馬 遼太郎(しば りょうたろう、1923年(大正12年)8月7日 - 1996年(平成8年)2月12日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。
産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』など多くがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。
※「モナ・リザ」は、イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油彩画。上半身のみが描かれた女性の肖像画で、「世界でもっとも知られた、もっとも見られた、もっとも書かれた、もっとも歌われた、もっともパロディ作品が作られた美術作品」といわれている。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年4月15日 - 1519年5月2日)はイタリアのルネサンス期を代表する芸術家。本名はレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ。
※マウリッツ・コルネリス・エッシャー(Maurits Cornelis Escher, 1898年6月17日 - 1972年3月27日)はウッドカット、リトグラフ、メゾティントなどの版画製作でよく知られたオランダの画家(版画家)である。建築不可能な構造物や、無限を有限のなかに閉じ込めたもの、平面を次々と変化するパターンで埋め尽くしたもの、など非常に独創的な作品を作り上げた。※掲載の写真とテキストは、2006年TASCHEN 刊、M.C エッシャーより。


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