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LA FEMME 100 TETES by MAX ERNST First published in paris Original copyright © 1929 by Max Ernst
口絵とそれに添えられた『……そして未来の。』、この句から発する爽快とさえ覚えるこのこ気味のよい響きにはうっとりするのである。私の身に何か?いえ、決して、嘘よ。嘘に決まっているわ。言葉に隠された隠しごとを探すのも一興だろうか。あくまでも、あまりにも個人的な淫びな世界であったとしても幸いにも高尚であるがために涙する輩もいるにちがいない。ことは速やかに運ばれたい。

------- 確かに怪しげな時の埃りを蹴散らして、あらぬ景色を照らし出しはしたけれど、なぜか音を立てなかったという気がしている。それというのも、埃りのなかから自分が密かに探し出してきた奇書だと思わせる隠密の技法が秘められていたからではなかろうか。このような絵本は、できることならもう一度埃りのなかへ眠らせて終い、幕末の長崎か京都あたりの本屋から密かに入手するするとか、でなければニューヨークの古物商「タイムアウト」の片隅から不図見付けたと思わせるようにしたいものだが。----- あの頃はマックス・エルンストという名前にも、どこか猛禽のくちばしを想わせるとげとげしさを感じたものだが ——— ※
書き手アンドレ・ブルトンの前口上などは、言葉の発する音の調子やスペルのリズムなどによる快感によって恐らくは綴られたものであり、芸術家の得意とする闇の不可解さに準拠するものと思われるのである。
偽りのもの、疑わしいもの、それとも確かなものとして、考えられ、書かれ、示されてきたこと、だがとくに描き出されてきたことのすべてが、私たちの上に、何か特有の接触の力をふるう。明らかにそれは所有されることなく、それゆえにこそますます耐えがたいまでに、欲望の的となるものである。※ 
右下方の画に添えられた句は『どの門も似たり寄ったり』、老いたる身が猿に聞く。最近どうかね。君ほどありがた迷惑な男は見たことがない。猿に言われるのである。阿呆らしい。
添えられた句をさらに拾おう。『犯罪か奇跡か--ひとりの完璧な男』、裸の男が宙を舞う。下で支える人々は彼に乞い願うはずである。なぜなら、ありえないからである。彼は救い主にちがいないのである。『おなじく、二回目……』、裸の男が私に寄りかかる。女は動じない。私はうろたえる。『…..そして三回目、これも失敗』、もともとからの数式に間違いが判明した。女はまずいと言ったのに、君は私の言うことを聞かない。
余すところはあの鉄格子門のように飾られたページの数々---もはや自己を弁明などしていない幾千もの古い書物から、言いかえれば、題名はなんであろうと、もはやそれを読むのが推奨に値することではなくなった昔の書物から切りはなされて存在する、あの挿絵ページの数々を閲することであった。※
maxernst4.pngさらに。『直径の大きな叫び声が、果物とずたずたの肉片を、棺桶のなかで窒息させる』、女の生首らしきものが見える。殺人鬼は一仕事終えた。棺桶に釘を打つ手下。場面は完璧だが、妙に統合性がない。脚本のまずさである。『月は美わし』、宙づりで半裸の女を抱きしめる若い男。彼の連れも夢中だ。さて、彼女は誰のものか。それが問題である。
『ロプロプと美しい庭師』、ロプロプとは、エルンストをかたったものであるらしいが、彼は怪鳥となり百頭をもつ麗しい実の妹にぞっこんらしいのである。抱きかかえられたロプロプはさぞかし満足であった。
心したまえ。人々の記憶にとどまるかぎり、百頭女はかつて一度なりとも、再植民の幽霊と関係したことはない。これからもそんなことはないだろう----むしろ、露のなかにひたされて、凍った菫花を糧とすることだ。※ ここは波風立たぬように。ね、君。
『つづき』、大凧に捕えられた男。果たして運命やいかに。物語はつづくのである。しかし、何ごとにも残念ながら終りはある。さらに。『両目のない眼。百頭女は秘密を守る』、子犬が彼女の背中にじゃれつく。秘密がばれている証拠である。僕の顔を手で覆ったじゃないか。ふん。『彼女は秘密を守る』、働く男たちの現場。男の裸の下半身がぶらさがる。見え透いていることを労働者は知らぬふりである。『ローマ』、神殿はいつも惨劇の引き取り場所であった。かたわらの女の顔に書いてあるではないかね。今日もまた。
『あの猿に聞いてごらん---百頭女って誰なの?教父さまみたいに彼は答えるだろう---百頭女をじっと見つめるだけで、わしにはあれが誰なのか分かる。ところが君が説明を求めるとそれだけで、わしにはその答えが分からなくなってしまうのじゃ』、上部に半裸の若い女。その下に頑健に映る若者が力む姿。猿は山猫をいさめる。この構図は合戦の前触れを表しているのである。『おわり そして つづき』、再び裸の男が宙を舞う。主は来たりたもうか。

<引用出典及び参考書籍>
※「百頭女」1974年、河出書房新社刊、巌谷國士(翻訳)による付録「百頭女のために」から瀧口修造”奇遇”より。
※マックス・エルンスト(Max Ernst, 1891年4月2日 - 1976年4月1日)は、20世紀のドイツ人画家・彫刻家。ドイツのケルン近郊のブリュールに生まれ、のちフランスに帰化した。ダダイスムを経ての超現実主義(シュルレアリスム)の代表的な画家の1人である。作風は多岐にわたり、フロッタージュ(こすり出し)、コラージュ、デカルコマニーなどの技法を駆使している。1891年、ブリュールで聾唖学校の教師かつアマチュアの画家フィリップ・エルンストを父とし、ルイーゼを母として生まれる。父フィリップは厳格なクリスチャンであり、マックスを敬虔な信徒として教育するとともに、彼を絵画のモデルとして使っている(『幼児キリストとしてのマックス・エルンストの肖像』など)。
1909~1912年、ボン大学において、哲学、心理学、美術史を学ぶ。フィンセント・ファン・ゴッホの絵画に触れ、画家を志す。その後、パウル・クレー、ジョルジョ・デ・キリコ、アンドレ・ブルトンら多彩な芸術家と出会う。※20世紀芸術の生んだ最大奇書、マックス・エルンストの最初にして最高のコラージュ小説である「百頭女」は、1929年、盟友アンドレ・ブルトンによる序文を得て、パリのカルフール社から、1000部限定で再販され、さらに1962年には、ベルリンのゲルハルト社からドイツ語版4000部が発行されたが、以来いずれも絶版に付され、長らく入手不可能になっていたものである。今回の日本語版は、したがって、現在入手できる世界でただ一つの版本ということになる。(「百頭女」1974年、河出書房新社刊、巌谷國士(翻訳)による付録「百頭女のために」から巌谷國士による解説。)
※フロッタージュ(frottage)は、 シュルレアリスムで用いられる技法の1つ。フランス語の 「frotter(こする)」に由来する。木(の板)、石、硬貨など、表面がでこぼこした物の上に紙を置き、例えば、鉛筆でこすると、その表面のてこぼこが模様となって、紙に写し取られる。このような技法およびこれにより制作された作品をフロッタージュと呼ぶ。
※コラージュ(仏: 英: collage)とは現代絵画の技法の1つで、フランス語の「糊付け」を意味する言葉である。通常の描画法によってではなく、ありとあらゆる性質とロジックのばらばらの素材(新聞の切り抜き、壁紙、書類、雑多な物体など)を組み合わせることで、例えば壁画のような造形作品を構成する芸術的な創作技法である。作品としての統一性は漸進的な並置を通して形成される。コラージュは絵画と彫刻の境界を消滅させることを可能にした。
※同上よりアンドレ・ブルトン前口上より。※アンドレ・ブルトン(André Breton, 1896年2月19日 - 1966年9月28日)は、フランスの詩人、文学者、シュルレアリスト。第一次世界大戦頃、当時フランスではあまり知られていなかったフロイトの心理学に触れ、終戦後ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポーらとともに、ダダに参加するも、1920年代に入って、トリスタン・ツァラと対立し、ダダと決別。以後、アラゴンやスーポー、またロベール・デスノス(Robert Desnos)らとともに新たな芸術運動を展開、眠りながらの口述などの実験を試み、1924年、「シュルレアリスム宣言」の起草によって、シュルレアリスムを創始した。
※上に同じ。前口上より。
※「百頭女」第八章最終ページより。


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