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Yasunari Nakagomi -Landscapes 2016- 中込靖成 展

ぼくがやっていること、少なくとも主観的にはやろうとしていること、それは果たして批評だろうか。ここの作品をとりあげ、ここがよかった、あそこが悪かった、こんどは頑張ってもらいたい、それが批評なら、ぼくは断じて批評家ではない。※

ここまでナイーブではないが、否、ナイーブを失ったら”芸術”などという対象を語る資格はないと思うのである。なぜとは聞くな。なぜそのものに、なぜと聞くのはおかしいではないか。ひとしなみとはよく言ったものである。だって、普通むつかしい。それをやらなければ批評ではないのではないのか。
かつてself-love自己陶酔型であると非難めいたことを言われたことがある。しかし、ひと皆ひとのことを扱い探求し言及などして生きているわけであるから、そんなこと知ったことではない。みんなself-loveであり共感を求めたいから芸術などというややこしい手続きをするのである。この際俗世間には用はない。きみがみえればいいだけである。
中込靖成の展示会案内状にあった油彩画である青のグラデーションである。よけいなことが省いてある。いつもなら、たぶん、かたちに遠慮をして青は添物となるはずである。頭の中の極隅の方にある経験のかけらとしての海岸の寄せる波だったりするはずである。もちろんそれは窮屈な思いをさせはするが、おしなべて生きててそんなものかと思いを馳せるのも確かではある。今日のこの日のくどくどともの言うわれは、言われれば晩年だろうとは思う。このように堅実さに対する弛緩は随所に現れるだろう。※ 
しかしながら青は身がまえる。原初の雰囲気である。青色はだれが発明したのかとつい思ってしまう。青を青と思うこと自体に恐れ入ってしまう。不思議でしょうがない。みんな当たり前のように青をこともなげに使う。解明無きままにすべては謎のままに終ってしまうだろう。

Yasunari Nakagomi -Landscapes 2016- は、20016年9月13日〜25日まで櫻木画廊にて行なわれたものである。
櫻木画廊, 〒110-0002 東京都台東区上野桜木2丁目15−1
TEL. 03-3823-3018
中込 靖成 Yasunari NAKAGOMI
1984 東京造形大学絵画科 卒業
個展(抜粋)
Pio Monte della Misericordia ナポリ・イタリア 
Villa di Donato (Metaphysic of landscape) ナポリ・イタリア
マキイマサルファインアーツ(Landscapes) 浅草橋・東京
櫻木画廊 上野・東京
ギャラリー安政 うきは市・福岡 / http://gallery-ansei.com

<引用及び出典>
※宮川淳 「絵画とその影」(2007年みすず書房)より引用抜粋。※宮川淳 /1933年東京に生まれる。1955年東京大学文学部美術史学科卒業。1963年「アンフォルメル以後」によって美術出版社主催第4回芸術評論賞受賞。1969年より成城大学文芸学部助教授。1977年肝臓癌のため死去。享年44歳。
著書に『鏡・空間・イマージュ』(美術出版社、1967年)、『紙片と眼差とのあいだに』(エディシオンエパーヴ、1974年)、『引用の織物』(筑摩書房、1975年)、『美術史とその言説』(中央公論社、1978年)、『宮川淳著作集〔全3巻〕』(美術出版社、1980-81年)など。訳書にベン・シャーン『文字をめぐる愛とよろこび』(美術出版社、1964年)、『ボンヌフォア詩集』(思潮社、1965年)、アンドレ・ブルトン『秘法十七番』(晶文社、1967年)、リパード編『ポップ・アート』(紀伊國屋書店、1967年)、ジョルジュ・バタイユ『沈黙の絵画――マネ論』(二見書房、1972年)などがある。

※「人は成熟するにつれて若くなる」ヘルマン・ヘッセ / フォルカー・ミヒェルス 編 / 岡田朝雄 訳。1995年、草思社刊。同書からの”堅実さの弛緩”についての引用である。
「生活がひどく現実性、あるいは迫真性を失い、現実性がそれ自体すでに生活の不確かな次元となり、前よりも希薄で、透明になったりするのは、晩年の雰囲気のひとつであり、晩年独特の堅実さの弛緩に由来するものである。」
※ヘルマン・ヘッセ(1877~1962年)ドイツ、ヴェルテンベルク州生まれ。詩人、作家。1946年ノーベル文学賞受賞。代表作に『郷愁』『車輪の下』『デーミアン』『シッダルタ』などがある。

2016.9.30

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