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ロン・ジュン「モナ・リザー微笑みのデザイン」油彩画 / Leng Jun “Mona Lisa-Smile Design”  +

わたしはその女に四五回会っている。※ 始めてたずねられた時は留守であったようだ。家人がどなたかの紹介でもありましたかとたずねたら、何もそのようなものはありませんと答えたということだ。
それから一日ほど経ってわたしの都合を手紙で聞いて来た。それによれば、彼女はすぐそばに住んでいるということであった。返事を返した。
女は約束通りに来た。はでな縮緬の羽織の装いであった。女はわたしの作品を好きで読んでいるらしい。あまり褒められるのもげんなりするものである。
一週間ほどして彼女は再び現れた。そして、涙ながらに自分の悲しい話しを小説にできないものかと頼んだ。わたしは聞いた上で書こうと言ってその場は別れた。しばらく時をおいて数日後、女にためらいはあったが話しをはじめた。しかし、新たに書いてくれるなという前置きがあった。先生にだけ聞いていただきたいのです。わたしは承知したと言った。女は安心したようであった。小さな桐の火鉢せいであったか女の顔はほてって赤くなっていた。話しは悲痛極まるものであった。
先生のお書きになる小説ですと、その女の最後はどうなるのでしょうかと聞いて来た。死んだ方がいいと言うのである。わたしは返答に窮した。
しかし、こう答えた。生きてください。時が癒しますとだけ答えた。夜は更けてその女を送って外へ出た。彼女は送ってもらって光栄ですと言った。そうですかと素直に答えた。その実、本当はわたしの方こそ窮していた。死んだ方がましだと思っているのである。

ある日、原稿を読んでくれという女が現れた。こう答えた。
いいですか。わたしはいまでもいつでも、だれとでも対等だと答えた。ですから、あなたの原稿を手ひどく言っても仕方はありません。ですから、あなたも腑に落ちないことがあったら正直に言ってください。これは、馴れ合いではありません。その女は黙って帰って行った。

部屋へ通されるなりある若い女が自分の廻りがきちんと片づかなくて困っておりますと言って来た。親戚筋に下宿をしていたから事情も推察できたので、もっと自由の効く家でも探したらどうかと言ったが、そうではなく頭の中がきちんと片づかないので困っているというのである。意味がわからなくて困っていると、自分が思っていることと世間が思っていることとが折り合いがつかず片づかないと言うのである。この女は数学が得意であるとは知っていた。自分の心の中心と合わないというのである。先生はその辺りのことが普通のひとよりも優れていると思いうかがいましたとも言った。内蔵の位置までもが整っていらっしゃるとも言った。ならば、そんなことが得意な山奥深くに住んでいる宗教の坊主のところへでも行きなさいと答えた。数学ではひとの生き方は答えられぬと言おうと思ったがやめた。内蔵が悪いとは答えた。彼女はすると突然、わたしは健康だと言って帰って行った。※

<引用出典>
※巻頭及びこの頁の絵は、中国第10回全国美術展受賞優秀作品による「現代中国の美術展」2005年12月10日発行図録表紙より引用。
ロン・ジュン(冷軍)「モナ・リザー微笑のデザイン」油彩画。125×45 / Leng Jun “Mona Lisa-Smile Design” oil painting. / モナ・リザには人類のもっとも崇高な審美眼が凝縮されている。私は、この芸術における至尊、至善の崇拝してきた。さまざまに移り行く今日、昨日を見つめ直すべき時が来た。我々の伝統芸術における人類初期段階の真善美の理念。その輝きは失われることなく煌めいている。この作品が原作にどう対応するのかは分からない。ただ私は、彼女が今日の我々に潜むあの高尚のものをいくらかでも呼び覚ましてくれるよう期待する。そうなれば、真の姿はまだ完全に失われていないということに慰められるということだろう。我々はまだ善良なのだ。(図録47頁、作者による解説)※ロン・ジュン(冷軍):1963年四川省大竹県生まれ。中国美術家協会会員。
※本文は、夏目漱石の「硝子戸の中」より引用、抜粋し意訳したものである。漱石全集、集英社刊、第8巻。昭和58年初版。
※夏目 漱石(1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。
その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。
※「硝子戸の中」は、「こゝろ」と「道草」の間に書かれた夏目漱石最後の随筆である。1915年(大正4年)1月13日から2月23日にかけて39回にわたって『朝日新聞』に掲載された。/ ガラス戸で世間としきられた書斎で、単調な生活を送っている作者のもとに時々は人が入ってくる。それらの自分以外にあまり関係ないつまらぬことを書くと前置きして、身辺の人々のことや思い出が綴られる。自分が飼ったヘクターと名づけた犬の死の話。身上話を漱石に小説にしてもらいたがった女の話。旧友O(太田達人)の訪問と短い交流の話。画を送ってきて賛を強要する男の話などから始められ、後半は漱石の若い時代の思い出の話が主となる。
※その女とは吉永秀という女性のことである。牛込区、現在の新宿区に住んでいた女性。大正3年から4年春まで、東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)に勤務。悲痛な話しとは、悲痛な不倫の話しのことであった。夫の留守中ある青年と恋仲になった。青年は自殺した。
※日本女子大学の学生のことらしい。


2016.3.24

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