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Photoillusion フォトイリュージョン 中居真理の表現について または、気負いだって写真を撮るのではない 電話のようなカメラのようなケータイがポケットに今はあることについて

中居真理 NAKAI MARI1981年生まれ 京都精華大学デザイン学部卒業 京都市在住

眩しい日差しがある。雲は分厚く真夏を思わせる。視界には樹々が暗く影となり、ある空間を形づくるのにふさわしい要素となっている。空には絵が描ける。ひとの立つところには必ず、ある目印がある。夕暮れには空は朱に染まり、二羽の鳥が窓辺に舞い降りる。わたしのそばまでは、もうすぐである。影は覆うことでしか役に立たないが、空の青さは在るということでしか、その存在を確かめることはできない。影を刳り貫くと今朝の下界の様子が分かるというのか。夕暮れという谷底に帰る日が来るに違いないからだ。※
nakaimari2.pngこのように中居真理のphotographシリーズには、言葉にならないある世界を見る者に語らせようとする趣がある。ある一瞬の情報をシャッターと共に意図されたイメージへとつくり上げるのであり、このことがアーティストと言われる所以であり、絶えずメタファーを効かせ駆使し対象を捉えるのである。
水面にオーガニックな装飾が見える、樹々に纏わりつくやわらかな綿のような白い光、影が襲う緑の地面、明らかに繊細な赤と淡い灰色に挟まれた弦月、モネの睡蓮のかけら、淡い小さな青と白と灰色のクールな配色見本。わたしの目に刻まれた、誰もがうかがい知れない映像である。
photographと呼ばれるこの無題の作品群は、中居真理のインターネット・サイトのトップに掲げられた淡い空の写真が、その特徴を代表している。ある旅行の終わりに、その地を離れるのが寂しく思い飛行場で頭の上にカメラを置きシャッターを押した。儚げな写真は儚げに切り取られている。芸術表現には日常の個人的な情感も含まれているのはもちろん、たった今の潜在する趣向や意識や漠とした世界観、そして、表現者の知性も含めながら露出してくる。ひとの生き死に於いて翻弄される部分は部分として表現の一部として現れる。表現への欲求と現実のひとの生き死には噛み合ない様も多々ある。折り合いを求めることもあるだろう。土に種が落ち芽吹き花を咲かせる。
中居は2007年頃からpatternと呼ばれる作品をつくり始める。
nakaimari3.pngpattern、つまり紋様である。それぞれに連鎖の要素もった地紋を敷き詰めた紋様は無限の背景を感じさせる。伝統の中の多くの紋様は既知の具象性から生み出された物が大半であり、その背景にある深い意味合いに重点が置かれている場合もある。全体の調和が重要である。
代表される作品にstripeとgingham checkがある。
nakaimari4.png一見ランダムに見えるが綿密に計算されていることが次第に分かるだろう。タイトルはstripeである。一辺が100×100mmの横断歩道の写真を969枚並べて制作されている。横断歩道の撮影は時間帯や天候を変え、横断歩道の質感や色の変化をテクスチャーの一部としている。ところどころ色が違うのは、そのためである。このような画像の要素はシーケンス(Sequence)と呼ばれ、時間の経過を表現するデザイン上の方法論に見ることができるが、中居は別なイメージへと展開をする。この作品は、これらのテクスチャーが集合するところに意味があり左右に広がるに連れstripeは角度を変えながら太くなるように計算され配置されている。エネルギーを感じる動きが生まれる。テクスチャーの質感や色の変化もその動きを補足する。その大きさは高さが5メートル、巾2メートルにもなりマチエールが盛り上がる巨大な絵画にも思えてくる。
gingham checkはなぞらえる世界である。建物などの角をアクソノメトリック(Axonometric)投影に見える角度から撮影をし、正方形に切り取り、その一片を多数組み合せてgingham checkになぞらえる作品である。撮影された角は正方形にトリミングされたことにより写真の具象性を逆に擬似的に立体化したグラフィックように思わせながら、実は写真であるという微妙な階調を持つ具象性が反発し、それぞれの一片を浮き上がったようにも見せる面白い作品である。間近で見れば明らかに現実の色彩や影の階調を持った物の角である。このように、これら両作品は見る側に心地よい裏切りを感じさせながら色彩のイリュージョンを魅力的に見せてくれるのである。
更に言えば、ここに来て初めて幻視とでもいった世界を垣間見せてくれるphotographシリーズとのつながりが明らかになるのである。では、何がつながりなのか。無題のphotographからpatternへとフレームを用意しながら下ろすと言う作業である。それは、たぶんに、誰でもが忘れ去ってしまった経験という名に於いて幼児が初めて言葉を発する時の瑞々しさである。言葉以前には認識は無いのである。中居真理は写真表現に於いて新たな現代アートを提示してくれたのである。
近々、中居真理は“patterns”という個展を開く。ここでは、前出のstripeとgingham checkのそれぞれの作品の中で構成され配置された正方形のテクスチャーである一片を並べ替えるという再構成の作品を展示する。正方形の一片は連鎖を解かれ各々は独立する。想像するに、そこでは具象性は消え写真であるかさえ判別できず、光と影と色彩だけが残る名前のない正方形の一片が多く壁面に並ぶことになろう。なぜなら、全体の中の一片という構成理由が無くなるからである。また、既知の意味を読み取ってしまうという意のゲシュタルト要因が、どこまで削り取られているかによって、この再構成の美学的意図はより見えてくるだろうし、深くデザインの計画性に関わっているに違いないとも思えてくるのである。

nakaimari6.png※心象風景のように儚げな印象を見せたりする一方でグラフィカルな一面も見せる。このような似た傾向の写真というのは、クオリティは様々としてもコマーシャルの世界で匿名の代名詞のような画像としてグラフィックデザインやウェブの素材として大量に出回っているのも現実である。当たり障りのない、どちらかといえば、ある雰囲気を醸し出すためのものであり、レイアウト上でスペースを都合良く埋めるための便利な写真であったりする。例えばだが、それは建物の影と空やひとの姿のぼんやりとした風合いや、水たまりへの写り込みである場合もある。特定し難い風景である。故に、この世界では空気のように重宝がられている。安易と言えばそうだが、便利性の名の下に使い回し的な著作権を気にせずに売り買いされる写真の世界である。
気負いだって写真を撮るのではない。電話のようなカメラのようなケータイがポケットに今はある。誰に教わらずとも、オートで明暗をチェックし調整し手ぶれもカメラが防いでくれる。後は個々の感性を待つのみであり、表現の可能性の領域はこのようにして現代に拡大をしたのである。時間は時代という新たな勢いを付けて流れている。
※メタファー(metaphor)は、隠喩(いんゆ)、暗喩(あんゆ)ともいい、比喩の一種でありながら、比喩であることを明示する形式ではないものを指す。つまり、「~のようだ」のような形式だけであからさまに比喩とわかる比喩(=simile直喩)ではないもののことである。例えば、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっていれば、その人は実をゆたかに結ぶ。」『ヨハネによる福音書』 。ことばだけに限らず絵画、映画などの視覚表現にも用いる。
※アクソノメトリック【axonometric】投影図法の一種。傾斜させた状態の立体を正面から描く。「アクソノメトリックプロジェクション(axonometric projection)」の略。「軸測投影法」ともいう。「アクソメ」と略す。

<引用出典>
各作品の画像は保存時の記事からすれば2009年当時のもののようである。本人からもらったものもあるが、よく覚えてはいない。文章も当時のままである。
http://www.nakaimari.info


2015.11.8

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