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Andrija-Lekic パリ静けさの響き Paris-vibrations du silence アンドリア・レキック写真展

Selon moi, le visage est l'objet suprême de la photographie et des autres arts. Parce que nous sommes bien plus complexes qu'une simple représentation photographique, j'essaie de capturer un fragment de cette complexité et de le placer dans un contexte plus large en utilisant différents symboles. Herzog disait que notre civilisation est aussi mince qu'une couche de glace à la surface d'un océan de chaos. Aussi, mon but est d'aller au-delà de celle-ci, de briser cette pellicule pour sonder au plus près la nature humaine. Je veux me confronter au chaos, suggérer ce qui est et qui, je crois, doit être changé. C'est ma responsabilité de photographe mais aussi d'être humain.
Andrija Lekic est née à Belgrade (Serbie) en 1976. A l'âge de six ans sa famille s'installe sur la côte du Monténégro. Il développe son goût pour la photographie dès l'adolescence en montrant un intérêt particulier pour le style documentaire spécifiquement centré sur les gens tout en essayant de retranscrire l'esprit de notre époque.
Après une maîtrise en marketing à l'université de Belgrade, il séjourne à Paris. Plus tard, il s'établit à Londres ou il étudie la photographie au Kesington et Chelsea College. Après quatre années passées sur place, il rentre sur Paris où il vit et travail désormais.

私の考えでは、人間の顔は、写真はもとより様々な芸術の分野における最高の被写体であり、限りなく複雑で捉え難いオブジェであると思う。私は、その複雑さ中にも僅かなかけらを捉え、別の象徴・サインとして置換えて表現することを試みる。映画監督ヘルツォーク曰く、私達の文明は、大洋に浮かぶ薄氷のように危うい、と。私の写真表現の照準は、その薄氷を破り、そのカオスの混沌とした大洋の奥深く潜り探るかのように、写真を通してこの人間の本質に迫ることである。私は、私の希望や私が大切と思うことに報いるために、カオスと向き合い、自分が何者であるかを見つめ、自身を変えていくことが写真家として、また人間としての責任だと思っている。※

Andrija-Lekic アンドリア・レキックは、1976年セルビアのベオグラード生まれ。 6歳の時に彼の家族はモンテネグロに移住。思春期から現代の時代精神を映し出す人々に焦点を当てたドキュメンタリー写真に興味を持つ。ケンジントン、チェルシー大学で写真を学び、パリ在住。2011年、九州日仏学館5Fギャラリーで写真展を開く。

Andrija-Lekic3.png作品をランダムに並べてみるが、それぞれが映画のワンシーンのように連続して行く余韻を感じさせる。普段はこれほどまでに風景を凝視しているわけではないのだから、フレームを外された途端に普段の退屈さが漲ることになるのだろう。左手の甲を大きく振りかざした白髪の高齢の女性と思われる人物と背後から捉えられた眼鏡の男の横顔。言い争っているような、相手を激しく叱責しているかのような空気が漂う。ただならぬ気配と幻想を見ようとする読みなのだろう。「パリの静けさの響き」はパリの沈黙の裏側と読み替えることもこともできるわけである。いつものことではあるが、ある思わぬ出来事は素知らぬ顔で沈黙の内に企てられているものである。
アンドリア・レキックの写真展でのメッセージには、パリ市のある地区の撮影の趣旨が述べられている。パリ10区のサンマルタン(Saint Martin)のOutsiderを、この冬から撮り続けた。彼らは必死に生きていると彼は言う。Outsiderをホームレスと言ったところでパリ10区のサンマルタンを理解できるわけでもないが、彼のバイオグラフィーに、人間の顔は、写真はもとより様々な芸術の分野における最高の被写体であり、限りなく複雑で捉え難いオブジェであると思うとあるのだが、日本民族にはない幾多の顔をもった民族同士の境界ををめぐっての争いごとを想像してしまうのである。※
映画監督ヴェルナー・ヘルツォークの名が出てくる。引用からすれば、西ドイツ生まれのニュー・ジャーマン・シネマの代表的監督は薄氷のように危うい文明を生きて来た。クロアチアの母とドイツ人の父との間に生まれる。アンドリア・レキックのベオグラードは目と鼻の先である。“ベルリンの壁の落書き”とアンドリア・レキックのパリ10区のサンマルタンの落書きが同じものに見えてくる。ヘルツォークもまた20代の青年であった1960年前後のドイツ映画に見るベルリンの壁にまつわる重苦しい数本と、思い浮かぶドイツ系女優であるクリスティーネ・カウフマンの若々しく美しいが故にせつない表情とが何かを物語ってくれる。また、若き頃のヴェルナー・ヘルツォークとシェア仲間であったというポーランド生まれでドイツで活躍した俳優クラウス・キンスキーが、ロシア革命直後を描いた映画の中で、あの広い額に青筋を立てて皮肉たっぷりに喚き散らす無政府主義者を演じていたのも、まんざら無関係ではなかろうと思えてくる。全てはどこかで通じている。※
モード雑誌の一枚かのような趣もある掲載の一番上の作品である。白壁に浮き上がるように舞うバレーダンサーの白い肌、暗闇に光る朱や青や赤の室内灯らしきものは、これから起きるであろう幻惑を物語るお膳立てであるのだろう。

※Andrija Lekic Biographyから。
※ユーゴスラビア国家分裂の行方/ 旧ユーゴスラビアの首都ベオグラード市内を貫流するドナウ川の水上交通は過去、いくたび遮断されたか知れない。多くの場合、岸辺に寄り添う多くの民族のいがみ合いが原因であった。全体主義のタガがはずれた東欧で、この国は国家分裂第一号となっただけでなく、「複雑分裂」「散乱分裂」の悲劇を招いている。(「民族世界地図」浅井信男著、1993年、新潮社刊)
※映画監督ヴェルナー・ヘルツォーク(Werner Herzog、本名:Werner Stipetić、1942年9月5日 - )/ ドイツの映画監督・脚本家・オペラ監督。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、ヴィム・ヴェンダースと並んでニュー・ジャーマン・シネマの代表的監督である。怪優・クラウス・キンスキーを起用した作品でも有名である。
※クリスティーネ・カウフマン(Christine Kaufmann, 1945年1月11日 - )は、オーストリア・シュタイアーマルク州出身のドイツの女優。ドイツ人の父親とフランス人の母親を持つ。子供の頃からバレリーナとしてオペラなどに出演。7歳のときから映画に出始めた。1958年、映画『幼な心』で主演。可憐な彼女は清純派美少女スターとして絶大な人気を誇った。
※クラウス・キンスキー(Klaus Kinski、本名:Nikolaus Karl Günther Nakszyński、1926年10月18日-1991年11月23日)/ ポーランド生まれ。ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『アギーレ/神の怒り』が有名である。「長女のポーラ・キンスキー、次女のナスターシャ・キンスキー、長男のニコライ・キンスキーはともに俳優となった。無政府主義者の役はロシアの作家、ボリス・パステルナークによる同名の小説を原作とする映画「ドクトルジバゴ」に出演したときのもの。1965年、米伊合作。デヴィッド・リーン監督。
※無政府主義 / アナキズムまたはアナーキズム (英語: Anarchism) は、政治思想の1つであり、国家や権威の存在を望ましくない、必要でない、有害であると考える政治思想。

※<Source of a quote>:http://www.andrijalekic.com

2015.8.4.

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