blowup2.png

Michelangelo Antonioni Blow-Up
意味以前を言いたいのだ。他には何もない。色は色でもない。しかし、そのようには実現は難しいから色だと思っていることを再現するしかないね。芝生は緑に塗った。それしかないだろう。

その瞬間のアドリブと見えてしまう直感的な画面は難解と思われるかもしれないが、現実の泥濘の中で架空を切りとることがいかに困難かがわかるだろう。映画は写真と時間の組み合わせだから、風にざわめく樹々は唯一生きている意味を教えてくれている。何も言葉を発しはしないから、そのことそのものが美しいと思う瞬間が誰に分かろうか。全ては頼りのない張りぼてのごときものである。テニスボールを打つ音を聞いたと思っているだろうが、そんなことはない。誰ひとりテニスコートにはいない。君がそう思っているだけだよ。現実なんてものはあるようでないものだ。見えないものが、見えるようになるには死をも乗り越えなければならない。そんなことがあり得るかね。全ては期待はずれだ。意味を多く求めてはいけない笑い話にも似た空騒ぎだ。興醒めは身体によくない。
もう少し言おう。意味以前を言いたいのだ。他には何もない。色は色でもない。しかし、そのようには実現は難しいから色だと思っていることを再現するしかないね。芝生は緑に塗った。それしかないだろう。他に方法があるかね。Thomasのロールスロイスといっしょに流れる赤や青の背景の建物は私がペンキで塗ったんだ。こうして人類は文明を築き上げた。筋書きは意味をなさないが、それに頼るしかない。動くには動機がいる。
Thomasの乱暴な物言いは気にする必要はない。あれは職人の徒弟制度のなごりだ。でなけりゃ、やってけない。専制君主でないと前に進まないさ。監督業もいっしょだね。モデルを物扱いしてるって言うが、当たり前だ。連中は商品のサンプルだ。ぼくに撮られるってことを誇りにしろ。Thomasは正しい。食いたいなら口を開けろ。そういうことだ。That’s good. Great ! Veruschka. Much more. Much more.
映画は瞬間の集積なんだよ。台本は台本屋にまかせる。美人は好きかと聞くのか。君も馬鹿だな。頭のない馬鹿女は嫌いだ。せいぜい生きるために肌をみがくことだな。それで充分だよ。Forget it. 画面は気持ちを表していることがわからいのかね。映画はね。それしかないんだよ。So What ? Vanessa Redgraveの裸の背中は美しいな。背骨がきれいだ。
映画に過去が写っては困る。写真がその時を切るように、その時の時間を切る。Veruschkaの発言は正しいね。ここはパリなんだよ。実はね。マイムの連中はぼくなんだ。ぼくの気持ちが分かるかね。すべてがあったかのように再現するには彼らが必要だったし、テニスボールは、ぼくのポケットの中にあったのを自白しなければならない。


L'eclisse 1962 - Elements of Landscape
https://youtu.be/vIhh62oWp9o

blowup4.png<引用及び出典>
※画像は全てTASCHEN「MICHELANGELO ANTONIONI The Complete Films 2008」より。
※ミケランジェロ・アントニオーニ (Michelangelo Antonioni, 1912年9月29日 - 2007年7月30日) は、イタリアの映画監督。
1912年9月29日、フェラーラで生まれた。ボローニャ大学を卒業後、地元の新聞に映画批評を寄稿。1940年にローマに移住。チネチッタで映画製作を学び、後にアントニオーニの作品に携わる数人の映画技術者に出会った。1942年にはロベルト・ロッセリーニの『ギリシャからの帰還』の脚本を執筆し、マルセル・カルネの『悪魔が夜来る』で助監督を務めた。
1947年、短編ドキュメンタリー『Gente del Po』で映画監督としてデビュー。その後も『愛すべき嘘』(1949年)など数本の短編ドキュメンタリーを製作し、1949年に初の長編となったドキュメンタリー『Ragazze in bianco』を発表した。
1950年、初の長編劇映画『愛と殺意』を発表。1955年の『女ともだち』で長回しによる撮影スタイルを確立。同年のヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した。1957年には自身の妻から突然別れを告げられたことをきっかけに、故郷フェラーラを舞台にした『さすらい』を製作。ロカルノ国際映画祭で金豹賞を受賞した。
1960年の『情事』は既存の映画文法とは全く異なる作品であり、第13回カンヌ国際映画祭で上映された際にはブーイングが鳴り止まなかったものの審査員賞を受賞。英国映画協会サザーランド杯も受賞し、アントニオーニの代表作となった。また、同作に出演したモニカ・ヴィッティはこれ以後、アントニオーニのミューズとして欠かせない存在となった。翌1961年にはヴィッティの他にマルチェロ・マストロヤンニとジャンヌ・モローを起用した『夜』を発表。第11回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した。1962年にはヴィッティとアラン・ドロンを配した『太陽はひとりぼっち』を発表。第15回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。これら3作品は「愛の不毛三部作」として知られる。
1964年には再びモニカ・ヴィッティを主演に迎え、初のカラー作品となった『赤い砂漠』を発表。第25回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。1966年にはイギリスを舞台に、スウィンギング・ロンドンと呼ばれた当時のポップカルチャーを織り交ぜた不条理劇『欲望』を発表。翌1967年の第20回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞。アンリ=ジョルジュ・クルーゾーに続いて、世界三大映画祭全ての最高賞を獲得した史上2人目の映画監督となった。
1970年、アメリカを舞台に学生運動やヒッピー文化などを描いた『砂丘』を発表。ピンク・フロイドの音楽とともにラストの爆破シーンが高く評価された。1972年には毛沢東の妻・江青の依頼を受け、文化大革命期の中国を舞台としたドキュメンタリー『中国』を製作。しかし、中国政府にとって都合の悪い描写を含んでいたため、毛沢東夫妻の反発を受け、中国で公開されたのは30年後のことであった。1975年にはジャック・ニコルソンとマリア・シュナイダーを起用した『さすらいの二人』を発表。ラストの7分間もの長回しが話題となった。
1980年にはテレビ映画『Il mistero di Oberwald』で16年ぶりにモニカ・ヴィッティを起用した。1982年には映画監督を主人公にした『ある女の存在証明』を発表。第35回カンヌ国際映画祭で35周年記念賞を受賞した。翌1983年にはそれまでの功績が讃えられ、ヴェネツィア国際映画祭で栄誉金獅子賞が授与された。
1985年に脳卒中に見舞われ、以後は半身麻痺と言語障害を患ったが、1995年にヴィム・ヴェンダースを共同監督に指名し、自身の短編小説を映画化したオムニバス『愛のめぐりあい』を発表。13年ぶりに映画監督として復帰した。同作にはジョン・マルコビッチやソフィー・マルソー、ジャン・レノ、ファニー・アルダン、イレーヌ・ジャコブなどが起用された他、『夜』で共演したマルチェロ・マストロヤンニとジャンヌ・モローも出演した。同作は第52回ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。同年、第67回アカデミー賞で名誉賞を受賞した。
2007年7月30日、ローマにて94歳で死去した。同日にはイングマール・ベルイマンも死去している。
※Blowup(邦題:欲望)は、1967年のイギリス・イタリア合作映画。アルゼンチンの作家フリオ・コルタサルの小説『悪魔の涎』を下敷きに、ミケランジェロ・アントニオーニが脚本を書いた。1960年代中盤のロンドンを舞台に、人気カメラマンの主人公が撮った、ある写真にまつわる奇妙な出来事を描く。「スウィンギング・ロンドン」と言われた、当時のイギリスの若者のムーブメントを織り交ぜつつ、サスペンスかつ不条理な独特の世界観となっている。1967年のカンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞。
音楽はハービー・ハンコック。監督のアントニオーニは当初、BGM無しで映画を作ろうとしたが、ロケ地のロンドンで聴いたハンコックのジャズを気に入り採用したという。この映画でハンコックは、ジャズ以外にもポップ・ミュージック指向の強い楽曲も披露している。ゲストとして、ヤードバーズがライブハウスのシーンで出演した。ギタリストのジェフ・ベックとジミー・ペイジが、ツイン・リードとして同バンドに参加していた時代の貴重な映像としても知られる。本来この映画では「Train Kept A Rollin'」を演奏するはずであったが、同曲の権利を保有する音楽出版社が多額の利用料を請求して来たため、やむを得ず替え歌として「Stroll On」という曲を演奏した。なお、当初はザ・フーに出演が依頼されたが、監督のギターを壊して欲しいという要望に、当時このパフォーマンスばかりが一人歩きしていることにうんざりしていたリーダーでギタリストのピート・タウンゼントが断ったという。完成した映画では、監督の要望通りベックがギターを壊す演技をしている。もっともベックはタウンゼントとは異なり、通常、ステージでギターを壊すようなことはしなかった。だがこの映画の出演を機に、一時期ヤードバーズのライブでギターや機材壊しを盛んに行っていたという。
キャスト / トーマス - デヴィッド・ヘミングス、ジェーン - ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ザ・ブロンド - ジェーン・バーキン、パトリシア - サラ・マイルズ
※Veruschka ヴェルーシュカ:身長183cm、ブロンド、クール、ミステリアス。1960年代、ヴェルーシュカはドイツ初のスーパーモデルだった。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の66年作品『欲望(Blow Up)』で本人役を演じ、71年には中絶の合法化を求める女性解放アクションに名を連ねる。写真家とのコラボで、森の苔草や朽ちた扉などの背景と一体化するボディーペインティングを始めたのは70年代。先頃、そのクリエイティブな半生と数奇な家族史をインタビュー形式で著し、注目を集めている。
東プロイセン・マズール地方(現ポーランド)のシュタインオルトを居城とする男爵家に次女として生まれ、5歳で父親と死別。父ハインリヒは44年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件で逮捕、処刑された首謀メンバーの1人だった。
残された身重の妻は労働収容所へ、娘3人は児童収容所へと別々に収監され、やっと戦後に再会できても苦しみは続いた。故郷を追われ、知人を頼りに各地を流転。転校先では「殺人者の娘」と紹介される。自分が印象的な被写体であることに気付いたのは、入学したハンブルクのデザイン学校で写真を撮られたとき。「パリへ行こう」―写真家の目を奪ったモデル、ヴェルーシュカはこうして誕生する。2005年からベルリンに住んでいる。父を処刑した街としてずっと避けてきたが、「国際的だし、芸術家が多い」ので居心地が良い。自叙伝は父母に捧げた。今は旧居城の修復プロジェクトで忙しい。ドイツニュースダイジェストより引用。http://www.newsdigest.de/newsde/news/kao/3761-vera-von-lehndorff.html(高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。)
※Vanessa Redgrave ヴァネッサ・レッドグレイヴ(Vanessa Redgrave, CBE, 1937年1月30日 - )は、イギリス出身の女優。祖父は英サイレント映画のスター、ロイ・レッドグレイヴ、父親は『バルカン超特急』等で知られ後にナイトとなるマイケル・レッドグレイヴ、母親は女優・レイチェル・ケンプソンという芸能一家に生まれた。弟コリンと妹リンも俳優。『裸足のイサドラ』でカンヌ国際映画祭 女優賞を受賞。『ジュリア』でアカデミー助演女優賞及びゴールデングローブ賞 助演女優賞を受賞した。
※マイム:パントマイム(英語:pantomime)は、台詞ではなく身体や表情で表現する演劇の形態。黙劇(もくげき)、無言劇(むごんげき)とも呼ばれる。

2015.4.20

Support Wikipedia

blowup3.png