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Her dead body 躯 — 松下由紀子の「手」

1984  松下由紀子 千葉県生まれ
2010  東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了 久米桂一郎賞受賞

それそこを狂った女が踊りながら通るぞ。なにやらぼんやり思い出しているふうじゃないか。イジドール・リュシアン・デュカス ※

躯が届いた。手首には大きな穴があいている。杙でも打ちつけられてはりつけにされたか。あまりにも冷たいから両手で暖めてあげた後、新年早々の不燃物の回収に間に合うようにと空らの酒瓶やビール缶といっしょに捨てた。部屋に置くわけにはいかない。※ 
思い過ごしもあるだろうが、松下由紀子の作品には手が多く出てくるように思える。そこから、何とはなしに実直で律儀な性格を想像するのである。”手”は意志を伝えるのに都合がよい。昨秋の三越の展覧会にあった「山頂の手」が新しい。図録でみるブロンズのその作品は、人の顔をした山並みの頂上に黄金色の手がたどり着くのである。征服には多くの労苦があっただろう。そして、その喜びを知るのは作者のみであるということを知るのである。※ 手もとにアルブレヒト・デューラーの「祈りの手」をモチーフにした彼女の線描の絵がある。辰年をテーマにした作品である。ごつごつとした手が龍を借りて描かれている。友情と感謝の物語である。※ 彼女は彫刻家であり画家であるという。日常ではありえない、気持ちの悪い、”禁断”の世界を思わせる造形であったり、いびつで不具の身体の造形が初期の作品に多くみられる。”救いようのない世界”を描くのがうまいのではないのか。否、半ば自動的にわき上がる憂鬱な思いというのが正しいと考える。深刻な裏切られた思いである。誠実でかげひなたのない世界の主が、ある日、こともあろうにその世界を自ら破壊するのである。言葉はいらぬ葬式の後の火葬場のようである。白い石灰の躯が、かさっと音を立てて残されているだけでなにもない。理屈のひとかけらもないのである。友情と感謝はどこへいったのか。実直で律儀な世界はどこへいったのか。悪魔はいかにも存在する。悪魔は幸せが好物であるから防ぎようがないが、悪魔好きもいる人の世でもある。

<引用及び出典>
※ロートレアモン(イジドール・リュシアン・デュカス)全集、1969年1月10日発行、渡辺広士訳、思潮社刊。※引用はマルドロールの歌、第三の歌、それそこを狂った女が踊りながら…..。以下は、その大筋である。「狂った女が踊りながら歩いてる。子どもがからかう。棒で追い払う。女の顔はまるでハイエナである。しかし、彼女はひとを責めない。誇りが高くて秘密を明かさない。ある日ふところから巻物を落とす。拾った男は一晩をかけて読んだ。久しく子どもができなかった彼女に愛らしい一人娘が生まれた。可愛い着物をたくさん縫ってあげた。わたしのちっちゃな浮浪児さん。牧場で一日遊んでも帰りたがらなかった。スープが冷めるわよ。運悪くロートレアモンがブルドッグをつれて通った。プラタナスの木陰で寝ていた少女は、ロートレアモンに犯され腹をナイフで割かれ内蔵をひきだされ絶命する。心臓まで引っ掻きだされたのだ。そして、プラタナスの木陰に股の間に大きな穴の開いた供え物のひな鳥のように放り出された。….」(拙稿)※ロートレアモン伯爵(Le Comte de Lautréamont, 1846年4月4日 - 1870年11月24日)は、フランスの詩人、作家。本名はイジドール・リュシアン・デュカス(Isidore Lucien Ducasse)。ウルグアイ(南アメリカ南東部に位置する共和制国家)のモンテビデオで生まれる。
※松下由紀子「手」。2014年作(陶)、マキイマサルファインアーツ 浅草橋・東京(東京都台東区浅草橋1-7-7.)※「山頂の手」2014年作(ブロンズ)/ 三越×藝大、夏の芸術祭2014
※アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer, 1471年5月21日 - 1528年4月6日)は、ドイツのルネサンス期の画家、版画家、数学者。「祈りの手」は友への感謝の言葉である。アルブレヒト・デューラーの画家としての栄誉は友ハンスの犠牲の上になりたち、そして、その栄誉は友と共にあったと言う話しである。
※「龍」2012 / 「二頭」/ マキイマサルファインアーツ 浅草橋・東京

2015.1.20

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