milena.png

Kafkas Freundin Milena M・ブーバー=ノイマン「カフカの恋人ミレナ」
深い海底は、たえず最大の水圧を受けています。重圧を受けていないところなどありません。あなたのそばにいるときもそうなのです。しかし、ほかの生活はすべて恥辱です…… フランツ・カフカ ※


……わたしには、わたしにはミレナ、ようくわかります。あなたはなにをなさろうと、間違っていないのです……わたしにそのことがわかっていないのなら、わたしたちの関係はいったいなんなのでしょう。深い海底は、たえず最大の水圧を受けています。重圧を受けていないところなどありません。あなたのそばにいるときもそうなのです。しかし、ほかの生活はすべて恥辱です…… フランツ・カフカ ※

翻訳を申しでた女と、いささか煩わしい性格の男の作家が出てくる話しである。朝起きたら虫になっていた男の話しを書く男の話しである。しかし、面倒くさい性格故にひとがわからないことがわかるのであろう。それはどういうことか。虫の気持ちが分かるのである。踏みつぶされても一向にかまわない無意味な汚い虫。それこそが彼が望んだ姿であるが、虫もまた虫なりに考えを持つから、余計に煩わしいとは思わないか。
フランツ・カフカはよく手紙を書いた。特別な関係にあった女性の場合は大量であり後に出版された。フランツ・カフカとは、”あの”カフカである。グレゴール・ザムザという生活力に欠ける無力な外交販売員が主人公であり、終いには甲虫に化けて死んでしまう哀れな話しを書いたユダヤ系ドイツ人の作家である。チェコスロヴァキアのジャーナリスト、ミレナ・イェセンスカーは、このストーリーをラーヴェンスブリュックの女性強制収容所でブーバー=ノイマンに語った。恋の話しのついでと聞く。恋の話しはかりそめではあるが、強制収容所という特殊で悲惨な環境においては生きる喜びを少しだけ与えてくれたことだろう。ミレナ・イェセンスカーは、カフカの作品の最初のチェコ語への翻訳者と言われている。M・ブーバー=ノイマンの著書「カフカの恋人ミレナ」は、フランツ・カフカの恋人であったチェコのジャーナリスト、ミレナ・イェセンスカーの”物語”である。この長い”物語”の時代背景には先の戦争があった。主義主張の争いがあった。その中で、彼女は狂人の政治で生まれた”女だけの地獄”と言われたナチス・ドイツのラーヴェンスブリュックの女性強制収容所に収監される。そして、そこで没する。著者であるM・ブーバー=ノイマンと、この著書の日本語翻訳本の訳者が1976年に出会ったときの描写があとがきにあるが、そのときの情景から何かを察することができるだろう。※
Margarete-Buber-Neumann.png二年前のことが思い出される。雨あがりの街路に、さわやかな空気がきらきら輝いている九月の夕方であった。約束の時刻が近づいて、胸をどきどきさせながら窓辺に佇んでいると雫の落ちる白樺の巨木の下にタクシーが滑りこんだ。わたしは、小さなホテルの階段をかけ降りて、玄関の扉をひらいた。微笑をたたえたブーバー=ノイマン夫人は、すぐさまわたしの手を力強く握りしめ(ミレナにもこうしたのだ)頬ずりをしてわたしを抱きしめた。しばらくの間、わたしは感動して言葉もなかった。※
ラーヴェンスブリュックの女性強制収容所については、V.E フランクルの著書にくわしくあり、読むことはできればやめたいが、読まなければわからないという馬鹿馬鹿しいジレンマはある。M・ブーバー=ノイマン「カフカの恋人ミレナ」の中のラーヴェンスブリュック女性強制収容所の様子は身近で生々しくわかりやすい。※
何千人もの若い女性や娘たちがぎっしり詰めこまれていた共同生活は、収容所の恐ろしさにもかかわらず、あるエロティックな雰囲気をかもしだしていた。わたしは、SS仕立工場で夜間勤務をさせられていたとき、若いジプシーたちを眺めていた。(中略)暑さや疲労や過労や、(中略)などもものともせず、熱烈な恋の歌をうたっていた。(中略)そんな連中は悪臭を放つ便所の奥の隅で、激しいステップダンスに身をくねらせた。その間、入口のところには見回りのSSから仲間をまもるため、見張りが立っていた。※

このままではミレナ・イェセンスカーについては謎のままではあるが、彼女が書き残した文章から何かを思えばよいのではないのか。カフカについては、このように言っている。
かれについて多くのことを知る人間はいなかった。だれも、かれのことを特別な人間だとは思っていなかった。ところがあるとき、だれかがかれをなんらかの事件で訴え、それに対してかれが自己弁護をしない、ということがあった。かれがとても誠実で男らしい顔をしていたことと、この告訴が重大であったことから、わたしにはその告訴がほとんど信じられなかった。誠実な顔と人をまっすぐ見つめる静かな眼をもつ青年にそのような醜いことができたと考えるのは、身を切るようにつらいことだった。そこでわたしは、一体どういうことなのかその事情を調べてみた。その結果、かれが自己弁護をしない理由は、自己弁護をおこなうことで、かれ自身についての無限に美しくかつ気高いなにものかがひとに知れてしまうからだ、ということがわかったのである。※
これに答えるかのようにカフカは同著の「政治記者」の章でプロローグを飾る。
あなたは透視する鋭い眼をもっています。しかしそれだけなら大したことはないでしょう。いや、人びとは路地を歩きまわってこの眼を自分に惹きつけようとしているのです。しかしあなたはこの眼がもつ勇気と、またとりわけこの眼差しをこえてなお遠くを視る力をもっています。つまり、この、先を視るということが主要なので、あなたにはそれができるのです。 ※
チェコスロヴァキアは1938年のそのころ、ヒトラー・ファシズムの只中にあった。他の欧州の政権も歴史的に見て友好であった国も頼りにならない状況であった。健筆をふるったジャーナリスト、ミレナ・イェセンスカーはチェコの地方住民の防衛意志を「ボヘミアの農村」というルポルタージュにまとめた。※
人口がざっと七百人というこの小さな村では、(中略)およそ八人が非常軍事演習に召集された。(中略)みんな戦争だと信じて疑わなかった。戦列に加わるまでにはまだ二、三時間あったにもかかわらず、(中略)十五分もするともう校長の家の玄関をどんどんたたいた。「なにをぐずぐずしているんです?さあ早く、出発です!」かれらは家族の世話や仕事は妻に任せて、予備役軍人用のシャツやズボン下や靴下を小脇にかかえて出かけてきたのである。(中略)ある農夫には召集状を直接ジャガイモ畑へもっていった。召集状を受けとった農夫は、「おっ母あ、石けんをくれ、入隊だ」。そういうと、農夫は手を洗い、出発していった。これは防衛にたいするすばらしい覚悟である。(中略)かれらは自分たち自身の土地にいて、平和と豊作と生活を欲しているのだ。しかしかれらは昼食をとるかのように武器をとる。※
M・ブーバー=ノイマン「カフカの恋人ミレナ」は、ミレナ・イェセンスカーとM・ブーバー=ノイマンの友情の話しである。その上にカフカの言葉が舞台の幕開きの口上のようにかぶさる。
わたしたちが出会ったのは、ラーヴェンスブリュックの女性強制収容所においてだった。ミレナは、収容所に護送されるときに一緒だったドイツ人から、わたしの身の上のことを聞いていた。ジャーナリスト、ミレナ・イェセンスカーは、私に会って、ソ連がほんとうに反ファシスト亡命者をヒトラーに引き渡したのかどうかを確かめたかったのである。バラックの裏側と、背の高い収容所の壁とのあいだに細い道があった。この壁には、強電流の流れる有刺鉄条網がはられ、われわれを自由の世界からひきはなしていた。※

<引用及び参考図書>
※M・ブーバー=ノイマン著「カフカの恋人ミレナ」/ 1993年、平凡社刊。 田中 昌子 翻訳。※印の箇所は、V.E フランクル「夜と霧」霜山徳爾 訳、1961年、みすず書房刊のラーフェンスブリュック強制収容所「女だけの地獄(L’Enfer des Femmes)」の記述を除いて全て同著翻訳本より。※チェコスロバキアは、1918年から1992年にかけてヨーロッパに存在した国家。現在のチェコ共和国及びスロバキア共和国により構成されていた。これはチェコ人とスロバキア人がひとつの国を形成するべきであるというチェコスロバキア主義に基づくものである。※絡めとられない言葉ーミレナ・イェセンスカのことー(岩波書店、図書2014.8月号、米田網路 / 米田 綱路(よねだ こうじ、1969年 - )は、ジャーナリスト、図書新聞スタッフライター。奈良県生まれ。2010年『モスクワの孤独』でサントリー学芸賞受賞。)※「カフカの恋人たち」ネイハム・N・グレイツァー著、池内紀 訳。1998年、朝日新聞社刊。
※フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883年7月3日 - 1924年6月3日)は、出生地に即せば現在のチェコ出身のドイツ語作家。プラハのユダヤ人の家庭に生まれ、法律を学んだのち保険局に勤めながら作品を執筆、どこかユーモラスで浮ついたような孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させる[1]ような独特の小説作品を残した。その著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、純粋な創作はその少なからぬ点数が未完であることで知られている。
※ミレナ・イェセンスカ(Milena Jesenská、1896年- 1944年)は、チェコのジャーナリスト、編集者、翻訳家。彼女は1919年から1920年の間、作家フランツ・カフカと恋愛関係にあった。父は著名な顎整形外科医でプラハ・カレル大学教授であったヤン・イェセンスキー。父親は保守的考え方の持ち主であったにもかかわらず、娘・ミレナをオーストリア=ハンガリー帝国初の女性向けギムナジウム「ミネルバ」に通わせ、ミレナは、そこで開放的な少女時代を過ごす。1915年、ギムナジウムを卒業したのち父の望みで医学を学ぶが、1916年に専攻を音楽に変更し、プラハの文士カフェに通い始める。彼女はそこでプラハ在住の作家たちと知り合い、銀行家・文芸評論家であったユダヤ人のエルンスト・ポラックと恋に落ちる。父は二人の交際に反対しており、ミレナを1917年6月から翌年3月まで精神科に強制的に入院させる出来事があったものの、1918年にようやく結婚が認められた。エールンストとの間に1女をもうける。
ミレナの強靭な精神力、何事にも動じない毅然とした性格をM・ブーバー=ノイマンやスタンダールが賞賛している。『ミレナへの手紙』のあとがきに評論家のヴィリ・ハリスは「16世紀か17世紀の貴族女性のようだ」と記した。スタンダールは、自らの作品の登場人物『赤と黒』のマチルド・ドゥ・ラ・モリエールや『パルムの僧院』のサンセヴェリーナ公爵夫人に例えている。15歳年上であったカフカもミレナに宛てた膨大な手紙の中で「母なるミレナ」と記していた。同著巻末にある解説の中のエピソードは、彼女を最も象徴するかのような話しである。「ミレナはゲシュタポに”ひょっとしてあんたの子どももユダヤ人じゃないのか?”と質問された時、”悲しいことに、たまたまそうじゃないんです”と答えた。そして、ユダヤ人に黄色の星を服につけるよう強制したニュースが伝わると、ミレナはダビデの星を自分の胸に縫いつけて街を歩いた。」解説ー未来の世代に宛てた遺書、久保覚(1937年2月 - 1998年9月9日)は、編集者、文化活動家、朝鮮芸能文化史研究家。本名・鄭 京黙(チョン・キョンムク)。
※マルガレーテ・ブーバー=ノイマン(1901〜1989)、ポツダム生まれ。著名な宗教哲学者マルティン・ブーバーの息子ラファエルと結婚するが思想的な食いちがいから離婚。この間にドイツ共産党に入党し、コミンテルン幹部だったハインツ・ノイマンと結ばれる。夫が逮捕・粛清された翌年の1938年に逮捕され、北カザフスタンのカラガンダ強制収容所に送られた。1940年、スターリン・ヒトラー協定にもとづきナチスの手に引き渡され、ラーヴェンスブリュック強制収容所で第二の収容所生活を送るという希有な体験を強いられることになる。
※SSは、ドイツの政党、国家社会主義ドイツ労働者党の組織である。アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織(親衛隊)として1925年に創設された。
※ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl、1905年3月26日 - 1997年9月2日)は、オーストリアの精神科医、心理学者。著作は多数あり邦訳も多く重版されており、特に『夜と霧』で知られる。※ラーフェンスブリュック強制収容所は、ナチス・ドイツの強制収容所のひとつ。主に女性を収容していたことで知られる。ドイツ東部メクレンブルク地方のフュルステンベルク市の近くに存在した。ベルリンからは北に80キロほどの場所である。総計12万人以上の女性が収容され、6万人以上が死亡したとみられる。※その大多数はフランス人であり、この収容所の性格を端的に表現し、またそれによってひろく知られるようになった「女だけの地獄(L’Enfer des Femmes)」という名前をつくったのも彼女たちであった。(V.E フランクル「夜と霧」霜山徳爾 訳、1961年、みすず書房刊。より。)
※画像は上からミレナ・イェセンスカー、M・ブーバー=ノイマン、フランツ・カフカ。

Support Wikipedia

kafka.png