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Paul Klee / パウル・クレー / 学者、1933 個人蔵
クレーの絵は、まるで取り乱したひとのように様々である。かれは絵描きというより、その時々で揺れ動く人の心を分析する機械のような装置を思ったりもする。自然の描写よりも文字記号にこだわる。必死に意味づけをする。理論派だから立ち位置にこだわる。

本当におもしろい絵だと思う。もちろん笑ってはいけない。染みだらけの古びた漆喰の壁のような、昔ながらの藁を使った農家の質素な壁を思うのである。その染みだらけの壁に細い線で”簡素な卵形の”悲しそうな顔が描いてある。丸い染みが、ちょうど目になっている。しかめた眉とへの字の細い口が印象的である。画家はパウル・クレー。1933年の作とある。左下にサインのようでもあり、識別票のようなかたちをした中に、Kleeとある。年代からして、あの忌まわしい記憶となった衣服に縫い付けられた人々の”星の印”を思い出すのは誰しもだろう。画題は”学者”。このころ画家は学者であったから、自画像ということになっている。画家になりそこねた”ちょびひげの男”が殺人者となって悪魔の仕業のような殺戮をやった時代である。※ 
クレーの絵は、まるで取り乱したひとのように様々である。かれは絵描きというより、その時々で揺れ動く人の心を分析する機械のような装置を思ったりもする。自然の描写よりも文字記号にこだわる。必死に意味づけをする。理論派だから立ち位置にこだわる。写真のように常に頬杖をつく思索家である画家は言った。「絵はわたしたちを見つめている」と。絵とは、つまり彼独特の方法による世界認識ではなかったのか。
「芸術家というのはあくまでも一本の木なのですから、大地の深みから生じてくる力を集めて伝えること以外に何もできないのです。仕えるのでも、支配するのでもなく、ただひたすら伝えるのです。このように、彼の役割はじつに控え目なものでしかないのです。彼自身が美しい梢ではありません。美しさはただ彼を過ぎていくだけなのです。……」※ 逆らいがたい天性の能力と理論家クレーの戦いを控え目に述べているのである。
「1933年1月ヒットラーが政権を奪取したことは、結果として現代美術に対する激しい抗争を引き起こし、それらは”退廃芸術”との烙印を押された。デュッセルドルフの美術学校もいろいろな新聞によって真っ向から攻撃された。クレーがデッサウに残しておいた住居は家宅捜索を受ける。4月、彼の講座は中断され、秋には決定的に解雇された。」※ ベルリンの画廊は彼を敬遠しだした。短期間パリに旅行し、画商のD.H.カーンワイラーと契約。そして、12月23日、ついに故郷ベルンに逃れる決心を固める。
この”学者”という悲しみの表情の意味が分かるのである。評者であるコンスタンス・ノベール・ライザーが語るように”簡素な卵形の顔”が、なで肩の線のうえに鎮座している。卵形の顔がバランスを崩し今にも転がり落ちそうである。単なる落書き程度の絵ではないことが分かるだろう。線だけという極度の省略は緊張の度合いを超え張り裂けんばかりの憤りと悲しみと不安を我々に伝えているのである。クレーの画家としての役割が見えてくる。※

<引用及び参考文献>
※岩波 世界の巨匠 クレー / コンスタンス・ノベールライザー著、グアルティエーリ・ディ・サン・ラッザーロ序文、本江邦夫 訳、岩波書店、1992年刊。/ 「学者 1933」35.0×26.5㎝ 個人蔵 ※掲載の作品とクレーの写真は同著より。
※パウル・クレー(Paul Klee、1879年12月18日 - 1940年6月29日)は20世紀のスイスの画家、美術理論家。ワシリー・カンディンスキーらとともに青騎士グループを結成し、バウハウスでも教鞭をとった。その作風は表現主義、超現実主義などのいずれにも属さない、独特のものである。※ワシリー・カンディンスキー(Vassily Kandinsky、1866年12月16日 - 1944年12月13日)は、ロシア出身の画家であり、美術理論家であった。一般に、抽象絵画の創始者とされる。ドイツ及びフランスでも活躍し、のちに両国の国籍を取得した。※青騎士(ブラウエ・ライター、ドイツ語: der Blaue Reiter)は、1912年にヴァシリー・カンディンスキーとフランツ・マルクが創刊した綜合的な芸術年刊誌の名前であり、またミュンヘンにおいて1911年12月に集まった主として表現主義画家たちによる、ゆるやかな結束の芸術家サークルである。
※星の印 / ダビデの星(ダビデのほし)は、ユダヤ教、あるいはユダヤ民族を象徴するしるし。第二次世界大戦期、ナチス・ドイツはその占領地において、ユダヤ人を識別するための標識として、ユダヤ人に黄色で描いた星型紋様をつけることを義務づけた。
※ちょびひげの男 / アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889年4月20日 - 1945年4月30日)は、ドイツの政治家。日本においてはヒットラーとも表記される。指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制(ナチス・ドイツ)を築いたため、独裁者の典型とされる。ちなみに出身はオーストリアであり、ドイツ出身ではない。
※デュッセルドルフ美術アカデミーは、ノルトラインヴェストファーレン州のデュッセルドルフにある美術大学である。1762年に設立され、ヨーゼフボイス、ナムジュンパイク、ベッヒャー夫妻(Bernd und Hilla Becher)、ゲルハルトリヒター、などが教授であったり生徒であったりと現在の美術に大きな影響を与え続けている学校である。※デュッセルドルフは、ドイツ連邦共和国の都市でノルトライン=ヴェストファーレン州の州都。ライン川河畔に位置し、ライン・ルール大都市圏地域の中心でルール工業地帯のすぐ南西部にある。人口は約60万人。金融やファッション、世界的な見本市の中心都市の一つである。
※岩波 世界の巨匠 クレー / コンスタンス・ノベールライザー著、グアルティエーリ・ディ・サン・ラッザーロ序文、本江邦夫 訳、岩波書店、1992年刊。同著28ページ。
※同上、108ページ。「学者 1933」解説より。

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