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Eugène Henri Paul Gauguin / 1888 Self-portrait with portrait of Bernard, 'Les Misérables’. /
親愛なるエミール・シュフネッケル。ヴィンセントが頼んできたので、彼のためにレ・ミゼラブル の自画像を描いたよ / 私の最も的を得た作品の一つだと想うがね。とても思索的で、抽象的な産物だ。ほんとだよ。ごらんのように山賊のような顔だが、貶められ、毛嫌いされている印象派画家の気高い化身でもあるんだ。この世のためにつねに鎖をひきずるヴィクトール=マリー・ユーゴーのノベル、ジャン・バルジャンだったんだね / ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン / エミール・シュフネッケル宛書簡 1888年、キャンペルレ

デッサンは全く特殊で、完全な抽象だ。目、口、鼻は、ペルシャ絨毯の花文様のようで、これは象徴的な面の擬人化でもある。色彩は、自然の色彩とは程遠い。もえさかる火のためにねじれた陶器を漠然と思い浮かべてもらいたい。すべての赤、紫には、画家の思考の戦いの場である、ぎらぎら輝くるつぼのごときものから発した焔の閃光がすじをつけている。全体は、子供っぽい花束を点在させたクローム色の地に描かれている。純潔な少女の部屋だ。印象派画家とは、美術学校の腐敗した接吻にまだ汚されていない純潔な存在なのだ。※

私はまた、マネのことを思い出す。これもやはり、誰にも気がねをしなかった一人だ。かつて私の絵(初めの頃の)を見て、彼はとてもいい、と言った。こちらは巨匠に敬意を抱いて答えた。ああ、私はただの素人です。当時私は、株式仲買店の店員で、夜と祭日しか、絵の勉強をしていなかった。いいや、ちがうね、とマネは言った。素人とは、まずい絵をかく連中のことなんだ。その言葉は、私には快かった。※


実務派で実人生をよくわかっている男と、弟の金をもらいながら情けない思いを胸に日々の暮らしをする半ば狂った男の話しである。ものごと、うまくいかない時には全てがうまく行かない。その男はアルルへぜひ来いと言うから、しばしの食い扶持に預かる程度の希望を持って赴いた。そいつは剃りを向けて斬りつけてきた。
本当を言うが、アルルへ発つ前テオが三百フランで私の陶器を買ってくれたんだ。シュフネッケル君、ことはうまく運びそうに想うかね。このところ年寄り染みている。悪いことばかりを想像してしまう。あちらには長くいるつもりだ。金の心配をしないで仕事をしなければならない。とにかく、世に出なければならない。ヴィンセントを、テオへの恩義もある、友情を信じようと思う。
アルルでは二人は、色彩についてたえず言い争いをした。黄色だらけのわたしの部屋には、黄色の太陽がさしこみテーブルの上の黄色のひまわりを更に黄色に染めた。この若い聖職者は、燃えるような黄色に神を感じていたにちがいない。嗚呼、ぼくらは二人並んで絵を描いた。例えば、アルルの古代ローマからの石棺の並ぶアリスカンの歩道だ。ひとは亡骸を保存する。なぜだね。ヴィンセント。不可解だ。※
随分の後、精神病院から手紙を書いてきた。友よ。ゴーギャン。ぼくらはみんな精神病ではないだろうか。パリに逃げた君は正解だ。哀れなその男は幾度も自分の似姿を描いた。離人気質の彼は、どれが本当の自分であるのか結論を急いだのである。哀れな男は自分の耳を削いだ。耳のない男が、私であるはずである。ヴィンセント。本当に君はどうかしてるよ。耳を削ごうが削ぐまいが、君は君だよ。嗚呼、小箱に小銭を入れた画家のためのみみっちい希望の国は瓦解したのである。娼婦へ耳を贈ったそうな。知ったことではない。これ以上の参与は無理である。深い傷を負っているのは、誰であるのかがわかってはいない男の所業である。死は免れたが、訪れることを願っていたかもしれない。病棟の庭に咲く花のみにしか託す相手はいないのである。どんなに美しく描こうが、もう終りだ。
ここだけの話しだ。ヴィンセントが、あの幾通りもの自画像を描いた本当の意味がわかっているか。あれは役者絵だよ。日本の浮世絵が好きなヴィンセントのやりそうなことだ。どの横顔が女にもてるか。日夜鏡の前で研究をしていた。そんなところだ。わたしも密かに役者絵をためしてみた。これが実にいい。日頃のむしゃくしゃも忘れるね。わたしは、ジャン・ヴァルジャンだ。この世のために常に鎖を引きずっているんだよ。わたしは社会から迫害されているが、持ち前の強靭さと愛の深さで正義のために戦うのさ。おれがどこを見ているかと聞くのか。鏡さ。※
アルルにやってきたころは、ヴィンセントは途方にくれていた。わたしはと言えば、食い扶持を探すに懸命な苦労人だった。あいつは若く、おれは大人であった。従って、助言を与えるはめになった。困難なときには、自分より不幸な人間がいるということを思うだけで癒えるものだ。考えてもみたまえ。激しい雷雨のなかで裸で荒れ野に突っ立っていることができるかね。どんなあばら屋でも、ないよりはましさ。以前よりは、わたしはヴィンセントを踏み台に画家としてより強固な確信をもったと思った。
”夜と祭日の素人絵描き”のこの男の晩年は知るところである。冒頭の師と仰いだマネの言葉は、この男の一生を物語っていただろう。何とか、辻褄を合わせて生き延びた。われわれの世界は、うまくことは運ばないということが分かってはいたはずである。実人生のあからさまを、まるで教典のように見せてくれたのではなかろうか。突然、会社員から天啓かのように画家になったのではない。そんな話しがあるとすればインチキである。耳を削いだ半ば気違いの男も、好きな女に袖にされて狂ったそうである。どこに高尚なものなどがあるものか。しかし、インチキを得意とする人間界であることも、よくよく承知しておかなければならない。全ては絵空事であると言ったところで、それもまた頼りにはならない。世の景況もあっただろう。会社員をやめて画家に転身したのである。マネの言葉は、どこかにあったにちがいない。大黒柱のかれは、絵は金になると踏んでいたはずである。言い訳じみた妻への手紙は、末代まで参考にできるはずである。もうすぐ金になるからね。待っててくれ。
近代社会は、金に交換できる技術をいかに巧みに学ぶかで勝負事は決まるのである。絵もまたそうであろう。錬金術は同じくして半ば気違いである。新しい価値の創造である。世の誰がわかろうか。
妻メットへ ………. 働くことに不平をいうな。これは、わたしの持論だ。若い時から働いてきた。そうでなければ、君とも出会っていない。ここで私は、熱帯の太陽に照らされ、毎日やってくる雨の中で、朝の五時半から夕方の六時まで、土を掘らなければならないのだ。夜は夜で蚊に食われる。しかし、おれが蚊に食われて働くということは、一体どいうことだ。何億年もの時間を無駄にした思いである。毎日毎日、老いぼれになる自分は加速を増して行く。もううんざりだ。マルティニックに戻れば、素敵な生活ができる。フランスで絵がせめて八千フランでも捌ければ、家族みんなで最高に幸せに暮らすことができるのにな。※
オランダの同胞ついてだが、この若い聖職者の頭の悪そうな顔つきに苛立ちはした。メッソニエに涙し、アングルを罵り、ドガの優しいまなざしに腹を立て、セザンヌをインチキと言った知性には嫌であったが認めざるを得なかった。こいつの頭の切れぐあいは予想以上であった。今思えば南仏のちんけなアトリエは、むしろましだったかもしれない。二人のための可愛らしい貯金箱には、各々が使った分をノートに記す約束があった。煙草代や、女遊びのための項目もあった。おれが料理をし、ヴィンセントが買い出し。こうやって半ば狂った男との暮らしは、実は、大いに実りあるものであったと思う。
かれはわたしの助言を受け入れ新印象主義から抜けだし、あのひまわりの見事な色彩の調和が生まれたのだ。激情しやすい忍耐のないヴィンセントに点描など似合うはずはない。わたしはわたしで、自分より不幸なこの男を見ることで苦しさから癒えることができたというわけだ。それにしても、時にあいつのつくったスープは飲めたものではなかった。まさか絵の具をまちがえて入れたのではないかと心配したものだ。
嗚呼、エミール・ベルナール。ヴィンセントの死の知らせを受け取ったよ。無念だが、悲観には暮れてはいない。彼の狂気の苦しみを目の当たりにしているからね。苦しみから解放されたと言ったら、君は怒るか。埋葬に立ち会ってくれたんだね。忠実な弟テオと君たち芸術家に慰めを受けたんだ。目下のわたしは芸術とは無縁だ
人間は己の半分は他人によって牛耳られているくらいは、わかっていた方がよい。さもなければ、狂うよりいたしかたないのである。ヴィンセントはわかっていなかった。かれは、もう一人の己が言うことを聞かないと勘違いをした。アルルを去るころのかれは極度に粗暴であった。キャフェでの、わたしに酒の入ったグラスを投げつける失態は哀れであり手の施しようもなかった。後は、知るところである。くだらぬ詮索は無用である。せめて絵画でもって、底知れぬ暗い穴を埋めようとしたことは理解してやらなければならない。最後に私に宛てた気違い病院からの手紙に”先生”とあった。あなたに悪い思いをさせたとあった。そして、狂っていないときを見定めて腹に銃弾を撃ち込んだ。
背後から剃りを向けて立っていたのだ。思わず睨み返した。逃げ去る後ろ姿に後悔もした。白々と世は明けた。

※ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(フランス語: Eugène Henri Paul Gauguin 1848年6月7日 - 1903年5月8日)は、フランスのポスト印象派の画家。姓は「ゴギャン」「ゴーガン」とも。
※ダニエル・ド・モンフレエ(1856-1929)は、画家、船乗りでありゴーギャンのもっとも忠実な友人。ゴーギャンの死後は、その遺作、遺稿の世話をやいた。
※エミール・シェフネッケル(Claude-Émile Schuffenecker、1851年12月8日 - 1934年7月31日)はフランスのポスト印象派の画家、美術教師、美術品収集家。ゴーギャンとも親交があり、また、ゴッホ作品の最初の収集家のうちのひとりであった。
※フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダ出身でポスト印象派(後期印象派)の画家。主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年 - 1889年5月)とサン=レミの精神病院での療養時代(1889年5月 - 1890年5月)に制作された。彼の作品は感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派の代表的画家である。フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。
※エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家。ギュスターヴ・クールベと並び、西洋近代絵画史の冒頭を飾る画家の一人である。マネは1860年代後半、パリ、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「印象派」となる画家グループの中心的存在であった。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、近年の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられている。
※テオドルス・ファン・ゴッホ(Theodorus van Gogh、1857年5月1日 - 1891年1月25日)は、オランダ出身の画商。画家フィンセント・ファン・ゴッホの弟。テオ(Theo)の愛称で知られる。フランスで活動したこともあって、名前はフランス風にテオドール(Théodore)と呼ばれることもある。
※『レ・ミゼラブル』(Les Misérables)は、ヴィクトル・ユーゴーが1862年に執筆したロマン主義フランス文学の大河小説。原題 Les Misérables は、「悲惨な人々」「哀れな人々」を意味する。1本のパンを盗んだために19年間もの監獄生活を送ることになったジャン・ヴァルジャンの生涯を描く作品である。
※役者絵(やくしゃえ)は、江戸時代から明治時代にかけて描かれた浮世絵の様式のひとつである。役者絵とは、歌舞伎役者や舞台そのもの、書割、大道具、小道具、歌舞伎を楽しむ人々などを描いた浮世絵を指す。
※アルルはフランス南部にあるコミューン。同国内最大面積を持つ。住民の呼称はアルレジャン (Arlésiens) と呼ばれ、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画などの題名に用いられている『アルルの女 (l'Arlésienne)』はこの女性単数形である。アルルは、フランスの市町村(コミューン)では最大の面積を持ち、地中海性気候で、暑く乾燥した長い夏、穏やかな冬という対照的な季節があり、日照時間は長いが降水量が安定しない。
※妻メットへの書簡。南国の夢は当てが外れ、パナマ運河建設現場でゴーギャンは働く。(ゴーギャン / オヴィリ(一野蛮人の記録)、岡谷公二訳、みすず書房、1980年刊。)マルティニーク(Martinique)はフランスの海外県の1つであり、カリブ海に浮かぶ西インド諸島のなかのウィンドワード諸島に属する一島。
※メッソニエ(1815-91)、ナポレオンの戦争画を描いた官展の画家。
※ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル(フランス語: Jean-Auguste-Dominique Ingres、 1780年8月29日 - 1867年1月14日)は、フランスの画家。19世紀前半、当時台頭してきたドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、ダヴィッドから新古典主義を継承、古典主義的な絵画の牙城を守った。
※エドガー(エドガール)・ドガ(1834年7月19日 - 1917年9月27日)は、フランスの印象派の画家、彫刻家。フルネームはイレール・ジェルマン・エドガー(エドガール)・ド・ガ(Hilaire Germain Edgar de Gas)。
※ポール・セザンヌ(Paul Cézanne、1839年1月19日 - 1906年10月22日(10月23日説もある))は、フランスの画家。当初はモネやルノワール等と共に印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。セザンヌはモネら印象派の画家たちと同時代の人物だが、ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。
※印象派絵画の大きな特徴は、光の動き、変化の質感をいかに絵画で表現するかに重きを置いていることである。時にはある瞬間の変化を強調して表現することもあった。それまでの絵画と比べて絵全体が明るく、色彩に富んでいる。また当時主流だった写実主義などの細かいタッチと異なり、荒々しい筆致が多く、絵画中に明確な線が見られないことも大きな特徴である。また、それまでの画家たちが主にアトリエの中で絵を描いていたのとは対照的に、好んで屋外に出かけて絵を描いた。
※新印象派(しんいんしょうは、neo-impressionism)とは、印象派の動きを受けて、19世紀末(1880年代前半頃)から20世紀初頭にかけて存在した絵画の一傾向。新印象主義とも呼ばれる。ジョルジュ・スーラにより創始されたもので、科学性を重視し、印象派による光の捉え方(いわゆる色彩分割)を、より理論化し、点描法によって、光をとらえることができる、と考えた。

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<参考書籍及び出典>
※ゴーギャン / オヴィリ(一野蛮人の記録)、岡谷公二訳、みすず書房、1980年刊。
※ゴーギャン展「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」図録。名古屋ボストン美術館、2009年刊。
※掲示画像(wikipedia/commons):ポール・ゴーギャン「レ・ミゼラブルの自画像」1888年、ポール・ゴーギャン「ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ」1888年(この絵は、狂ったわたしだ。フィンセントは言った。)、フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」1888年。
※ゴーギャン私の中の野生 / フランソワーズ・カシャン著、高階秀爾 監修。創元社、1992年刊。

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